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引きこもりだったキックボクサー。
ファイヤー原田、37歳で涙の引退式。 

text by

橋本宗洋

橋本宗洋Norihiro Hashimoto

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photograph byNorihiro Hashimoto

posted2011/10/25 10:30

引きこもりだったキックボクサー。ファイヤー原田、37歳で涙の引退式。<Number Web> photograph by Norihiro Hashimoto

引退セレモニーで仲間に囲まれるファイヤー原田(写真前列中央)。2003年のプロデビューから約8年、37歳で現役生活に幕を閉じた

 キックボクシング団体J-NETWORKの後楽園大会で、ファイヤー原田の引退セレモニーが行なわれた。

 彼の名前を知らない人も多いことだろう。最高位はライト級1位。チャンピオンベルトを巻いたことはなく、戦績も13勝15敗3分(7KO)と負け越している。決して一流のファイターではなかったから、異例の引退式といっていい。だが、会場に足を運んだ者に“異例”という感覚はなかったはずだ。戦績、すなわちデータ以上のものを、観客の心に残したからである。キック界の“主役”になることはなかったが、脇役にも人生があることを彼は示し続けた。努力を続けた人間には、必ず居場所があることを証明してみせた。

観客の心を揺さぶる、感情丸出しの熱血漢。

 リングネームの通り、とにかく熱い男だった。入場曲はドラマ『スクール☆ウォーズ』の主題歌である『HERO』。今にも叫びだしそうな高いテンションで入場し、実際にラウンド間のインターバルで自分を鼓舞するかのように叫び、勝つとダンスで喜びを表現した。地団太を踏むようなステップで腕を振り回す“ファイヤーダンス”は、キック界の名物だったといっていい。

 試合ぶりも単純明快だった。シンプルに殴って、蹴って、KOを狙う。それゆえKO負けも多かったのだが、勝った選手以上に感情が伝わってきた。勝って泣き、負けて泣き、いずれにしても不格好で、観客は笑いながらも目がクギ付けになった。

引きこもりから一念発起、27歳にしてキックの道へ。

 ファイヤー(ファンは“原田”ではなくこう呼ぶのを好んだ)がキックボクシングを始めたのは27歳の時だった。青春時代は家に引きこもってゲームばかりしていたという。周囲に溶け込めず、大学も一週間で中退したそうだ。やっと落ち着いた就職先は、「一人で作業に没頭できる」ゲーム会社だった。

 かつての自分を、「今日死のうか、明日死のうかと思っているような人間でした」と彼は振り返っている。だが、「自分を強くしたい」と一念発起して入ったキックボクシングの世界で人生が変わった。

 初めて、人との触れ合いを感じることができた。「頑張れ」と言ってもらえることがたまらなく嬉しくて、真っ正直に頑張った。KOを期したデビュー戦が引き分けに終わると、鉄柱への蹴り込み1000本を日課にしたという。

 彼は自分の闘いを観客に“届かせる”ために拳を振るい、踊り、笑って泣いた。ファイヤー原田にとって、格闘技とは他者との関わり合いそのものなのだ。つまり個人競技ではなかった。練習仲間と対戦相手と観客がいて初めて成り立つのがプロの試合だということを、彼は最初から知っていた。

【次ページ】 ファイヤーと仲間を繋いだリングとの別れ。

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ファイヤー原田

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