カンポをめぐる狂想曲BACK NUMBER
From:さいたま「応援とは何か」
text by
杉山茂樹Shigeki Sugiyama
photograph byShigeki Sugiyama
posted2005/02/16 00:00
素直に喜べなかった北朝鮮戦。盛り上がったのは
テレビの中だけで、大多数のファンは静かだった。
そんな彼らを見て、僕は応援の本質について考えた。
ロスタイムの決勝ゴール。劇的な幕切れなので、やむを得ない面はある。大喜びも致し方ないけれど、本来は大ブーイングを浴びるべきダメ試合だ。北朝鮮戦の話なのだけれど、僕の印象では、少なくとも一般のファンは、思いのほか冷めていて、感激を露わにスタジアムを後にする姿は少ないようにみえた。
試合中もそう。接戦、熱くなっていい展開にもかかわらず、スタンドは静かだった。ゴール裏に陣取る日本代表サポーターは、いつものように始終盛り上がり、また逆サイドのゴール裏席の半分を埋める北朝鮮の応援団も、赤い波を終始揺らしていた。しかし、正面とバックを埋めるおよそ5万人の観衆は「トヨタカップ」を想起させる静けさに包まれていた。ゴール裏席との温度差がここまで著しいケースも珍しい。
テレビカメラは盛り上がっている場所の絵だけを抜くので、お茶の間のファンはつい、現場からの「こちらは盛り上がっています!」的なレポートを、鵜呑みにしがちだが、それは一部の限られた場所にすぎない。静か。これが正解だ。
Jリーグのスタンドも同じだ。一部を除けば、長閑といいたくなるぐらい静かだ。日本人のサッカーファンは概して大人しい。「サポーター」といわれる一部の集団以外は「テレ朝」的ではなく「NHK
BS」的だと思う。
それを物足りなく思う人はいると思うけれど、それはそれでいいじゃんと僕は思うようになっている。無理は疲れるし、嘘臭い。だから、みんなで一緒に応援歌を歌いましょうとか、熱くなりましょうと言われると、とたんに引く。自分のペースで居させて下さいよと反発したくなる。でも僕は、基本的には、誰にも負けないを自負するサッカー大好き人間だ。身体のどこかには、これまた誰にも負けない熱いスピリットがある。でなければ、年間100試合近くも、サッカーの試合なんか見ちゃいられないんだけれど、それはさておき、静かなファンは、日本に限った話ではない。外国にも存在する。
知られたところではバルセロナだ。何より応援団の規模がとても小さい。やっと存在を確認できる程度だ。95%以上が普通のファンなので、カンプノウに
大きな歌声がこだまするケースは稀。そういう意味では入っていきやすいのだけれど、それでいてお客さん気分のファンは滅多にいない。ピッチには、9万8千人の食い入るような目が向けられている。肉眼で確認できそうなくらい鋭い視線だ。凄みを感じずにはいられない。
当然、ナイスプレーには無意識に感嘆の声が漏れる。漏れるといっても全員からなので、ど迫力だ。サポーターが歌う応援歌より真実味がある。良いプレーには拍手もでる、一斉に。ガックリするプレーには溜息も出る、これまた9万8千人が一斉に。選手の背中には、それが全て降りかかる。「見ている」「見られている」の緊張関係が手に取るように伝わってくる。とても怖い静かさだ。
イングランドも応援団は少ない。しかし、こちらは静かではない。誰彼ともなく、ゲキを飛ばす。一般席に座る紳士風のファンも、試合になれば突如豹変。
行ってしまったような危ない人になる。とても騒々しい。まず拍手ありき、まずゲキありき。選手はそれに押されるようにファイトする。彼らを動かしているのはスタンドのファン。そんな気さえする。プレーの後に反応するバルセロナファンと順序が違うのだが、視線はこちらも同じように鋭い。観衆と選手の「見ている」「見られている」の緊張関係が、僕にはとても羨ましく感じられる。
応援とは何か。僕は、プレーをちゃんと見てやることが基本だと思う。目を皿のようにカッと見開き、鋭い視線をピッチに投げかける。選手との間に緊張関係を構築させることが先決だ。その結果、声を出したくなれば出せばいいし、拍手したくなればすればいい。歌を歌いたくなれば歌えばいい。真の迫力は、その順番でないと生まれない。それこそがホームスタジアムのあるべき姿だと思う。だから、静かではあったけれど、観衆がキチンと見ていたように見えた「さいたま」のスタンド風景が、僕には好ましく見えた。押し黙って当然。北朝鮮のプレーに拍手する自虐的な態度に出ても良いくらいお粗末な試合内容だった。もちろん外国では、しばしば見かける応援スタイルで、そこにはファンと選手の濃い関係が見え隠れする。ダメな時にはダメとハッキリ言ってやらないと、チームは進歩していかない。日本代表は強くならないと僕は思う。