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『ふたつの東京五輪』 第1回 「五輪前夜」 <後編> 

text by

松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

PROFILE

photograph byPHOTO KISHIMOTO

posted2009/05/20 11:30

 『ふたつの東京五輪』 第1回 「五輪前夜」 <後編><Number Web> photograph by PHOTO KISHIMOTO

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とにかく貧しかった。フィルムを買えないことが一番辛かった。

 収入という面では非常に苦しかったのを覚えています。今はデジタルカメラがありますから、大量の写真を撮るにしても、それほど経費はかかりませんが、当時はもちろんフィルムしかありません。撮影するにはフィルムを買わなければいけないし、現像やプリントの経費もかかる。フィルムの購入費用にも事欠くありさまで、つてのできた出版社に「こういう写真を撮ってくるから、前借りさせてほしい」とお金を借りてはアメ横に行って外国製のフィルムを手に入れたものです。

 その頃はフィルム一本で400円ほどしたでしょうか。大衆食堂なら、200円もかけないで食事できた時代ですから、やっぱり高価なものでしたね。

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1959年にIOC総会で夏季五輪開催地に決定した後、精力的に活動を支援された皇太子同妃両殿下(現天皇皇后両陛下)

 そんなあるとき、日紡貝塚の体育館まで女子バレーボールの練習を撮りに行きました。監督は「鬼の大松」と言われ、厳しい指導で知られた大松博文さん。練習は日中から深夜の2時すぎまで続いたと記憶しています。

 用意したフィルムは2、3本しかない。しかし、撮り終えたからといって、とても先に帰るとは言い出せない緊迫感です。あとは、ひたすらシャッターを切って、撮っているふりをして……練習の最後まで見届けました。

 決して生活は楽ではありませんでしたが、とにかく楽しかった。現場で接する選手や指導者の人たちは本当に魅力的でしたし、凄いエピソードを持っている人たちばかりでしたから。

 例えば、レスリング・グレコローマンの花原勉という選手がいました。東京オリンピックで金メダルを獲得した選手です。彼はこんなことを言っていました。

「僕はとにかくいつでもポケットに煮干しを入れて食べてるんだ。だから絶対に骨が折れることはないんだ」

 彼には息子さんがいて、中学生のとき腕を骨折して帰ってきたそうです。すると、いたわるどころか、「何をやってるんだ」と怒って息子さんを殴ったんですよ。「そのあと、女房にめちゃめちゃ怒られたよ」と言っていましたがね(笑)。でも僕は、世界を目指して己を突き詰めた人たちのある種極端な精神に限りなく惹かれていましたし、そこから学ぶことも本当に多かった。

カメラマンも選手も、一緒になって必死に生きていた時代。

 当時はまだカメラマンも、選手たちと近い距離で接することのできた時代でした。先の、バレーボールの撮影のときは大松監督から「泊まっていけよ」と気軽に声をかけていただき、実際、泊めてもらいましたし。

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アジアの文化に造詣が深かった第5代IOC会長のアベリー・ブランデージ(アメリカ)。日本文化をこよなく愛した人物でもあった

 合宿などにも積極的に撮影に行っていましたが、近い距離で接せられるからこそ理解できる選手たちのヒューマンな部分は、競技中の美しい姿とともに強く印象に残っていますね。

 東京オリンピック開催を直前に控えた時代……日本で初めて行なわれる世界的なビッグ・イベントを間近にして、世界の一等国になるのだと東京全体、いや日本全体がめまぐるしく動いていましたね。

 世界の頂点を目指して超人的な努力を重ねていた選手たちの熱気と、スポーツで世界に日本をアピールするのだという高度経済成長期特有のなんだか誇らしいような時代の空気。そのふたつの熱に浮かされるようにして、まだ若かった僕のスポーツカメラマンとしての人生は始まったわけです。

岸本健

岸本 健きしもと けん

1938年北海道生まれ。'57年からカメラマンとしての活動を始める。'65年株式会社フォート・キシモト設立。東京五輪から北京五輪まで全23大会を取材し、世界最大の五輪写真ライブラリを蔵する。サッカーW杯でも'70年メキシコ大会から'06年ドイツ大会まで10大会連続取材。国際オリンピック委員会、日本オリンピック委員会、日本陸上競技連盟、日本水泳連盟などの公式記録写真も担当。
【フォート・キシモト公式サイト】 http://www.kishimoto.com/

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