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宮本慎也 「甲子園で校歌を聞こう」 

text by

鷲田康

鷲田康Yasushi Washida

PROFILE

photograph byJMPA

posted2009/02/12 23:00

宮本慎也 「甲子園で校歌を聞こう」<Number Web> photograph by JMPA
エリート揃いのプロ野球でも、彼ほど多彩な球歴を誇る選手は少ない。
アマで中村順司、プロでは野村克也という球界屈指の名将の薫陶を受け、
日本代表で国際舞台も経験した宮本慎也が明かす監督たちの実像とは。

「ここでは相手チームと戦う前にまずベンチと戦わなければならない。ベンチに勝たなくちゃならないんだ」

 宮本慎也がヤクルト入団直後に古田敦也から聞いた言葉だった。

 宮本がヤクルトの一員となったのは1995年だった。すでにチームには野村克也監督の「ID野球」が浸透。かつての弱小球団はペナントレースの中心的な存在となり、毎年のように優勝争いを演じていた。

「ヤクルトに入った頃、練習をしていて監督が来ると見ないでも分かったんです。“あっ、監督が来たな”って。空気が変わるんです。そういう雰囲気が当時のチームにはあった。常に選手は監督を意識していた。監督っていうのは、そういう存在だと思います」

 入団当初から守備に関してはすでに一流だったが、打撃が非力で野村からは「自衛隊」と呼ばれていた。それだけに監督との戦いは主にバッターボックスの中で繰り広げられた。

「ある試合でチャンスに初球の真っ直ぐを右中間に三塁打したんですよ。で、野村監督の配球の考え方に、凡打の次の打席は逆の球、ヒットを打ったらその球種っていうのがあるんです。で、次の打席で真っ直ぐ見逃したら怒られると思って、必死に真っ直ぐに詰まらんようにって打席に立っていた。そうしたら変化球がきて凡退した。ベンチに戻ったら“アホか! オマエみたいなヘボに真っ直ぐ打たれてピッチャーは後悔しとるんじゃ”ってどやしつけられたんです」

 野村理論を忠実に実行しようとして怒られたわけだ。だが、そこでもし反論しようものなら、“オマエがヘボだっちゅうことをよく考えろ!”と、それこそマシンガンのような言葉が返ってくるのは目に見えていた。

「理論は理論。それをどう状況に合わせて考えられるか。あのときなら自分が“ヘボ”だということをしっかり頭に入れて相手のことを考えなければならない、ということなんです」

 だが、こうして「相手チームと戦う前に、ベンチと戦う」野球は、結局は宮本の打撃を飛躍的に向上させる一つの要因となった。

「プロに入ってからの僕には、監督といったらやっぱり野村監督です。監督とはボスでなければならない。圧倒的な野球理論、ボスとしての威圧感。僕の知っている中ではやっぱり監督は野村監督なんです」

 宮本はヤクルトに入団するまでにPL学園高校から同志社大学、プリンスホテルとアマチュア野球の名門チームでプレー。そこでアマ球界でも屈指の名監督とも接してきた。

 PL学園時代の監督、中村順司のことは「今でも尊敬しているし、畏怖を感じる」と語る。

「アマチュアの監督というのは、選手にとっては絶対的な存在です。僕は野村監督を心底、胴上げしたいと思いました。でも、アマチュア時代はこの人のためにとか、そういうのより、この人についていけば勝てる、目標が達成されるという思いの方が強かったと思いますね。中村監督に対してもやっぱりそういう意味での信頼感だったように思います」

 中村は事あるごとに選手たちに「甲子園で校歌を聞こう。それが自分たちの目標だ」と語ったという。予選を突破するのが目標ではない。甲子園で勝つこと。甲子園で優勝することが目標だった。選手たちも甲子園大会で勝ち日本一になりたいという思いが強かった。そのためについていく人。それがアマチュアのときの監督像だったわけだ。

 そうした観点でみると日本代表の監督も、どちらかといえばアマチュア時代に描いた監督像に近いものだと言う。

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