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谷亮子の復帰をうらなう。 「柔の道」に生まれて。 

text by

城島充

城島充Mitsuru Jojima

PROFILE

posted2007/03/22 00:00

 3月に入った平日の昼下がり、福岡市内の閑静な住宅地を車で走り抜けると、高い石垣の向こうから激しい息づかいとタイルの床を鞭で叩くような音が聞こえてきた。

 それが日常の光景だからか、犬を連れた近所の女性はその音が聞こえてくる大きな家の前を平然と通り過ぎていく。近くで引っ越し作業をしていた業者のスタッフだけが、青い柔道着が干してあるその家のベランダのほうをちらりと見た。

 谷亮子が故郷・福岡で開かれる全日本選抜体重別選手権での復帰を明言したのは昨年12月、自身が11連覇を含む12度の優勝を歴史に刻んだ福岡国際の閉会式にゲストとして姿を見せた時だった。

 「来年4月に照準をあわせます」

 そう語った谷は、年があけて1月24日のテレビに生出演して以来、メディアの前から消えた。全日本女子チームの奄美合宿や欧州遠征にもその姿はなく、断片的に報じられた情報は『昨年まではふっくらした体格で、一日20分走るのが精一杯だった』『ベビーシッターを加えた〈チーム・ヤワラ〉を再結成し、柔道に専念できる環境を整えた』『自宅や母校の福岡工大附属城東高で体を動かしている』などといった内容だけだった。

 全柔連(全日本柔道連盟)を通じてインタビュー取材を申し込み、福岡へ向かった。「練習に集中したい」という理由で谷サイドから断りの連絡がはいったのは、締め切りの関係で本誌の取材班が福岡を後にする日だった。冒頭の光景を目撃したのは福岡空港へ向かう直前、地元の報道関係者から聞いてばくぜんと頭にいれたエリアをレンタカーで走ったときだ。

 耳に飛び込んできた「音」は、ボクサーがロープを跳ぶ音よりも、もっと硬くて重い質感がある。自宅で草刈り用の鎌を使ったトレーニングをしているという記事をずいぶん前に読んだが、おそらくそれとも違う。

 その場で車を止めることができなかったのは、飛行機の出発時間が近づいていたからだけではない。どこか痛みを連想させる響きに、谷亮子が背負う修羅を感じたからだ。

 プロ野球選手の夫と結婚してまもないころ、すでに国民的ヒロインだった女性柔道家は報道陣とこんなやりとりをかわしたことがある。

──結婚して変わったことは。

 「田村から谷に、変わりました」

──変わらないものは。

 「柔の道です」

 実際、彼女はアテネで金メダルを獲得し、「田村で金、谷でも金」の夢を思い描いたシナリオ通りに実現した。母親になった喜びが胸を満たした今も、彼女にとって「柔の道」は変わらないのだろうか。

 215勝5敗2分け。とてつもない数字を築き上げてきた谷が最後に出場した大会は'05年4月、横浜で開かれた全日本体重別選手権になる。

 その年の9月にカイロで開かれる世界選手権の代表選考を兼ねた大会で、谷はかつて連勝記録を「65」で止められた福見友子(筑波大)を内股すかしで破り、決勝では「世界で2番目に強い」と言われ続けた北田佳世(ミキハウス)を延長戦の末に退けて14度目の優勝を飾った。延長戦で北田に「指導」を与えた主審の判定を疑問視する声もあったが、「世代交代」を頑なに拒否した女王の存在感は揺らぐことなく、畳の上を支配していたかのように思われた。

 だが……。

 この夜、所属する「トヨタ」が開いた祝勝会で、谷が涙を見せたことはあまり知られていない。

 「みなさんのサポートに心から感謝しています。ありがとうございます」

 そう言って頭をさげた女王の瞳からぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。

 この涙を歓喜や安堵ではなく、頂点に立ち続ける彼女の苦悩や葛藤に重ねたスタッフは少なくなかった。

 バルセロナ、アトランタと2大会続けて五輪の決勝で苦渋を味わった。2000年のシドニー五輪で「初恋の人に出会ったような」感慨とともに金メダルを胸にかけた時点で、そのサクセスストーリーは理想的な結末を迎えたように思えた。実際、後援会長が引退を勧める声や、'02年4月に福見に不覚をとったときには「もう、やめたい」と、彼女自身が全日本女子の吉村和郎監督(当時)に電話で伝えたことも活字になった。

 だが、そうした苦悩も、'04年のアテネ五輪で連覇を果たしたことで「美談」として語り継がれていく。そして彼女は畳から降りる決断をしなかった。

 なぜ、戦い続けるのか──。

 繰り返されるメディアからの質問に、アテネ五輪以降の谷は例えばこう答えてきた。

 「私の可能性に期待してくれる人たちに応えたい気持ちが強い。私を応援してくれる人たちが全国にいる。その人たちの期待に応えたいという気持ちが私の力になる」

 だが、純真な言葉を意地悪く裏返せば、「周囲の応援がなければもう戦えない」という悲痛な叫びに聞こえはしないだろうか。

 一度だけ、谷に「追われる立場」の苦しみについて聞いたことがある。'05年1月、全日本女子の強化合宿の公開練習日だった。その声が、カセットテープに残っている。

 「初めて福岡で優勝した時は『まぐれと言われちゃいけない』と思いましたし、高校ぐらいまではそんなプレッシャーを感じていたかもしれませんが、今はありません。他人のことも意識しませんね。ずっと追いかけられる立場であり続けたいとは思いますが、いつも自分自身に目を向けてますので」

 それが本心だとしたら、3カ月後に彼女が流した涙は何だったのか。

 女子柔道のパイオニア的存在として一時代を築き、現在は母校の筑波大で柔道の指導をしている山口香・武蔵大准教授は「彼女はもう、みんなから愛される『柔道のヤワラちゃん』という存在でしかいられない」と言う。

 「『ヤワラちゃん』という一人のイメージが彼女のなかで作られている。だから、演じているのか、それが本当の自分の姿なのか、彼女自身もわからないと思う。戻るに戻れないし、それ以外の自分を作ることのほうが大変というか……。でも、本当に選ばれた人、スターってそうじゃないですか。10代のころから谷が受け止めてきたプレッシャーというのは尋常じゃない。でも、谷の凄さは、そうしたなかで勝ち続けてきたことにあるんです」

 全日本選抜体重別選手権を10連覇し、最後は追われる立場の苦しみを味わった山口は、谷を見て「自分は凡人」だと痛感したという。

 「極論すれば、自分は『柔の道』のために生まれてきたんだと思えるかどうか。思いこめば、火のなかだって熱くない。どんなに苦しい状況に追い込まれても、彼女にはその覚悟があるんです。超一流の職人と同じ感覚なのかもしれません。どれだけ精巧な作品を作って周囲から評価されても、彼女にとってまだそれは完成品じゃないんです。常に修行中で、自分が決めた道にストイックな感覚を持ち続けている」

 祝勝会の涙を見て〈このままだったら、彼女はつぶれてしまう〉とまで危惧する関係者もいたが、谷がそんな周囲の不安をかき消すような「覚悟」を見せたのは、その2カ月後、妊娠を発表した会見だった。

 長期の休養を宣言した同じ舞台で、彼女は「ママでも金」──という次の目標を改めて公言した。戦い続ける意義を他者に依存しかけていた柔道家は、再び自らのなかにその情熱を燃やし始めたのだ。

 「心配する声もあるでしょうが、あの子がやると決めたのなら、必ずきちんと仕上げてくる」と言い切ったのは、柔道を始めた8歳のころから大学を卒業するまで谷を指導してきた帝京大女子柔道部監督の稲田明だった。

【次ページ】 「彼女は苦しみさえも糧にして成長する」

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