革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
野茂英雄は日本球界に何を残したか「日本人でも、武器があればメジャーで」…佐々木誠・長谷川滋利そしてイチローが「やれないことはない、と」
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喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byTakahiro Kohara(L)/Koji Asakura(C)/Kazuaki Nishiyama(R)
posted2025/06/27 11:03
長谷川滋利、イチロー、佐々木誠。野茂の挑戦を見た彼らの心には「やれないことはない」という思いが生まれた
メジャー仕様に切り替える難しさ
「大谷君も、弾いているように見えるけど、あれもボールが重たくて、速くて、回転数があるから、バットにボールが食いついてくる。だから、グッと押し込んでいるんですよ。あれがアオダモだと、グッと差し込まれる。押したつもりが、逆にグッと押されていく。日本のアオダモだと、軟らかすぎてグニャッとなっちゃう。だから、ハードメープルを使わないといけないんです」
メジャーに適応するためには、バットを替えなければいけない。スピードに対応するためには、右足を高く上げてタイミングを取っていた日本でのスタイルでは「間に合わない。多分、足は上げられないだろうなと、それも感じていました。大谷君だってノーステップだもんな」。つまり、バットもフォームも“メジャー仕様”に切り替える必要があった。
「あと、グラウンドの土の硬さ。日本は軟らかいから、スパイクのピンが長い。それを3分の1くらいにしないといけない。そういうことを全部、日本で試しながらやったんです。スパイクは何とかなったけど、やっぱりバットに関しては、とにかく難しかったですね」
決断次第では日本人野手1号だったかも
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そうした環境への適応が難しいのではないかと、自分で判断した上で、最終的にメジャー挑戦を断念したと佐々木は明かす。
「実際、エージェントと話して、コンタクトが取れますけど、と、球団の誘いはあったことは確かです。FAを宣言する前(1995年)かな」
FAでのメジャー挑戦は、1997年の吉井理人が“第1号”だった。しかし、佐々木の決断次第では、ひょっとしたら、佐々木がその座を奪っていたのかもしれない。
野茂の影響を受けた男たちの決断にも、また、それぞれの思いと苦悩があったのだ。
〈つづく〉

