革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
野茂英雄は日本球界に何を残したか「日本人でも、武器があればメジャーで」…佐々木誠・長谷川滋利そしてイチローが「やれないことはない、と」
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喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byTakahiro Kohara(L)/Koji Asakura(C)/Kazuaki Nishiyama(R)
posted2025/06/27 11:03
長谷川滋利、イチロー、佐々木誠。野茂の挑戦を見た彼らの心には「やれないことはない」という思いが生まれた
「日本人選手でも、野茂のように、ある意味特殊なもの、フォークボールという武器があれば通用するんだなと思いました。ただ、イチローはそんなに体が大きいわけではなかったし、ヒットを重ねていくバッターだし、メジャーでいけるのか、というのは正直、見当もつきませんでした。
それでもやっぱり、バットに当てる技術の高さは、向こうに行っても一緒なんだなと。プラスアルファ、肩であるとか足であるとか、そういうところはメジャーの中でも一流になれるんだな、っていう“ものさし”にはなりましたね。だから、野茂が行ったときよりも、イチローが行って、メジャーの門がもっと開けたような気はしますね」
長谷川滋利という男
時は前後するが、そのイチローや野茂のように日本で圧倒的な成績を残し、海を渡ったというケースとは違い、藤井でさえも「ハセの実力じゃ、メジャーでは通用せんやろ、というくらいの感じ」と懐疑的に見ていたというのが、野茂がドジャース入団を果たした翌年の1996年、日米球団間のトレードという形でアナハイム・エンゼルス(現ロサンゼルス・エンゼルス)に入団した長谷川滋利だった。
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1990年のオリックスのドラフト1位右腕は、96年までの6シーズンで通算57勝。2桁勝利を4度マークしているとはいえ、どちらかといえば技巧派だろう。野茂のように剛球とフォークという代名詞のような球もなく、日本最後の年となった96年の公称も、身長1メートル80センチ、体重73キロ。ちなみに94年の野茂が1メートル85センチ、89キロ。その体格差も大きく、藤井も「あのスピードで、あの体でメジャーリーガーって、どうなんだろ? って思っていました」。
それでも、藤井が感心していたのは、遠征の移動中など常日頃から英語の勉強を欠かさずに行うなど「常にアメリカを意識していた」という長谷川の愚直なまでの姿だった。

