革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
「やっぱりあのフォークはメジャーでも通用するんだ」野茂英雄を最も打った左打者・藤井康雄も「“浮き上がる”フォークはお手上げでした」
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喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byTakahiro Kohara
posted2025/06/27 11:02
野茂から4本のHRを放ったオリックスの藤井康雄が体感した、「野茂がメジャーで通用した理由」とは
そこに、野茂が風穴を開けた。そのメジャー挑戦に至る背景、決断、そして球団との交渉内容や手段に関してはこれまでの連載で詳述してきた通りで、ここでの主題ではないため省略するが、自分が対戦したピッチャーが世界最高峰の舞台で旋風を巻き起こす姿には、率直に心を動かされたという。
「野茂が行って、日本人で、あの野茂のボールで、メジャーでもあれだけ三振が取れるんだ、勝てるんだ、というのは感じましたね」
メジャーに憧れる後輩たち
その姿に、触発されたかのように、藤井の周りで「メジャーに行きたい」と、憧れを募らせる後輩たちが出て来た。
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後にメジャーで活躍する長谷川滋利と、イチローだった。
野茂が右肩の故障で、夏以降はファームでのリハビリに専念した1994年。結果的にその年が、野茂の日本でのラストイヤーになるのだが、イチローは3年目のこの年、当時のシーズン最多記録となる210安打を放って、スターダムに躍り出る。
その前年の93年6月12日、新潟・長岡で行われた試合で、イチローは野茂からプロ初本塁打をマークしている。しかし、後のメジャーのスーパースターになる2人は、日本ではどこかすれ違いの感は否めない。野茂がメジャーに行ったから、イチローはその後を追ったという短絡的な図式に、どこかフィットしないのは、2人が交錯した時間が日本ではわずかだったからだろう。
それでも、イチローは野茂が切り開いた道へ続いたといえる
それでも、野茂が切り開いた「メジャーへの道」にイチローが続いたという、歴史の流れが生まれたという解釈には、疑いの余地がないだろう。野茂のメジャー挑戦が「任意引退」の日米間の解釈の違いという盲点をついてのものだったことは確かだ。その抜け穴を防ぐべく誕生したともいえる“合法的メジャー挑戦”のルールが「ポスティング・システム」であり、その入札制度でイチローは2001年からシアトル・マリナーズでプレーすることになる——。
〈つづく〉

