サッカー日本代表 激闘日誌BACK NUMBER
ジャーナリスト金子達仁が目撃した激闘の記憶
posted2018/05/11 10:00
text by
金子達仁Tatsuhito Kaneko
photograph by
KYODO
ワールドカップメキシコ大会アジア予選(東京 国立競技場)
日本 1-0 北朝鮮
思い出すのは、国立競技場が上越国際より寒かったということ。
あのとき、わたしは大学1年生で、春休みだった。金欠だけれどもスキーはしたい小僧はスキー場でアルバイトすることを思いつき、後期の試験が終わるやいなや新潟県にある上越国際スキー場で住み込みのバイトを始めていたのだった。
キャベツにマヨネーズとトンカツソースをかけると極上のアテになる。全国から集まった大学生のバイト仲間と、寮でワイワイ騒いでいたときのことだ。愛知県から来ていた大学3年生の先輩バイトがいった。
「お前、サッカーやってたゆうとったな。今度の全日本の試合、観にいかんの?」
まだサッカーは悲しくなるほどマイナーで、日本リーグから選抜されたチームはバレーボールよろしく「全日本」と呼ばれることもある時代だった。高校時代をバレー部員として過ごし、サッカーにほとんど関心のなかった先輩は、たまたま食堂にあったテレビでワールドなんたらの予選で全日本と北朝鮮が試合をすることを知ったらしい。
あ。
スキーにかまけてすっかり試合があることを忘れていたくせに、あると知ってしまえば行きたくて仕方がなくなってしまった。'79年のワールドユース以降、国立競技場で行われる日本代表戦は全部足を運んでいたのだから。
氷雨の降る国立、敵地のような恐怖。
幸い、きっかけをつくった先輩は快くシフトを代わってくれた。
あのころ、上越新幹線は開通していたのだろうか。していたとしても、交通費を安くあげるべく、日本中どこへ行くのも在来線だったわたしには関係のないことだった。とにかく、朝早く上越国際の寮を出たわたしは、半日後、氷雨の降る国立競技場に乗り込んだ。
その寒かったことときたら。そして、怖かったことときたら。
雨の中、ジャージの重ね着で見るサッカーは、完全防寒のスキーウェアで過ごすゲレンデよりもはるかに寒かった。観客の大半、いや、7割近くは朝鮮学校の生徒か在日のコリアンで、わたしは映画『パッチギ!』で「神奈川朝高のソンベ(先輩)も法政二高のやつらに殺されたしのう」と言われてしまう、在日コリアンからすると敵対リストのかなり上位に名を連ねているはずの学校の出身だった。