スタジアムの内と外BACK NUMBER
欽ちゃんともう一度。
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byShoichi Hasegawa
posted2005/01/18 00:00
突然の解雇通告は10月上旬、寮で聞いた。
自身でも「そろそろかもな」という思いがあった。ここ数年、連続して最下位のチームカラーに染まってしまい、熱い思いが消えかかっている自分を感じてもいた。社会人チームや外国でのプレイを模索する手もあった。でも、もういい。もし、日本の他のチームに行けないのなら、仕方がない。「引退」を素直に受け入れよう。
しかし、12月。知人を介して、ある知らせが飛び込んできた。
「タレントの萩本欽一が社会人チームを作ることになった」
欽ちゃんが野球? はじめはピンとこなかった。その知人に熱心に入団の勧誘を受けた。この時点では、国内のプロチームに入団する可能性はほぼ閉ざされていた。
まだ、30歳だ。体は時間をかければ元に戻る。しかし、一度消えかかった野球への思いをもう一度、熱くたぎらせることは難しいと思った。ひとまず返事を保留した。
もやもやした思いを抱えたまま、新年を迎えた。目的もなく就職するのはイヤだった。だから、「今年、1年何もしないで、少しゆっくりと過ごしたいんだ」、親にはそう伝えた。
「まだやれるんじゃない?」、周囲からは何度もそう言われた。
そうは言っても、自身の気持ちが燃え上がらないのならば、結果も知れている。だから、1年はゆっくりと過ごして、もう一度、自分を見つめ直そう、そう考えた。
野球を始めてから初めて過ごす、「野球のない新年」。
しかし、ぼんやりとした気持ちで正月を過ごしつつも、気持ちのどこかに、萩本欽一の姿、『ゴールデンゴールズ』のイメージがあったのもまた事実だった。
8年間のプロ生活での思い出は、01年の日本シリーズ。
この年はあまり調子がよくなかった。チームがリーグ優勝をかけて激しい争いを繰り広げている中、2軍に落とされた。それが悔しくて、コーチとひたすらレフトへ、流し打つ練習を繰り返した。バットをコンパクトに振って、鋭く強く飛距離のある打球、それが本来の持ち味だった。本調子を取り戻すべく、ひたすらフリー打撃を繰り返した。
こうして臨んだ、日本シリーズ第4戦。
1−1の緊迫した場面で登場し、見事にレフトへ流し打つホームランを放った。狙い通りだった。久しぶりの感覚だったので、思わず速くベースを一周してしまった。後で、もう少しゆっくりと味わって周ればよかったな、と少しだけ後悔した。
そして、このホームランが決勝点となり、その年、チームは日本一に輝いた。
報道を通じて、そして知人を通じて、欽ちゃん球団の全容が少しずつ、少しずつ見えてきた。「祭り」としての野球、地域に根づいた野球、ファンが自由に楽しめる野球、そして、技術的には多少未熟であっても、いろいろな人が楽しくプレイできる野球。いずれも、その根底には野球への愛情が満ち溢れていた。
年が明けて数日が経った。彼は、入団を決めた。
1月8日。多くの志願者とともに、「公開オーディション」と呼ばれるトライアウトに参加した。欽ちゃんにはこのとき初めて対面し、合格を告げられた。欽ちゃんに「一選手としてだけではなく、選手育成の役割を担って欲しい」と頼まれた。もちろん、初めからそのつもりだった。自分がプロで学んだことを多くの人に伝えたい。その思いが、再び、消えかかった気持ちに火をつけた。
大型の寒波が襲来して、激しい雨が降る1月のある日。
オリックスを退団した副島孔太はシニアリーグの少年たちにまざって黙々とバットを振り続けていた。人を教えるからには、自らが先頭に立って、実績を残さなければならない。だから、きちんと練習をする。どんなチームになるのか、どんな戦い方をするのかもわからない。だから、個人的な目標はない。目標はただひとつ、チームを軌道に乗せること。そのためには、一選手としてだけではなく、積極的に広報活動もする。連盟へ赴き、事務手続きもする。忙しくも戸惑いつつも、充実した日々。これこそ、自分が望んでいたことではなかったか。
副島孔太。欽ちゃんとともに、再び野球の道を歩み始める。