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「トルコ行進曲 テリムの夢の城」 

text by

熊崎敬

熊崎敬Takashi Kumazaki

PROFILE

photograph byTakuya Sugiyama

posted2008/07/10 18:32

「トルコ行進曲 テリムの夢の城」<Number Web> photograph by Takuya Sugiyama

 ミュンヘン郊外、ミルバーツホーフェンに建つトルコ人パブ「兄弟」は、その日、大勢のトルコ男に埋め尽くされたが、ほとんど盛り上がらなかった。

 ユーロ初戦、ポルトガルとの対決を待ち望んでいたはずの男たちは、押されっぱなしの試合を観て「元々、期待などしていない」という風を装い始めた。いくつかのテーブルでは、試合が始まっても賭け事が続いていた。男たちは時折、横目で戦況を見やり、トルコの劣勢を確認すると、ふたたびゲームにのめり込んだ。朦々と吐き出される紫煙の中で、テーブルにカードを叩きつける音だけが響く。

 トルコは何もできないでいた。まだ失点していないし、勝負は下駄を履くまでわからない。しかし、思った。彼らはきっとグループリーグで帰国の途につくだろう、と。たった2試合で敗退が決まるかもしれない。

 外気を吸おうとハーフタイムに外に出ると、鋭い目つきをした赤ジャージの男が憤懣やる方ないといった表情で喋りかけてきた。トルコ移民の2世でアリと名乗った男は、この一戦を中継するドイツのテレビ局『ZDF』と、その実況を非難した。

 「あの実況は口を開けばポルトガルとロナウドばかり褒めちぎって、トルコを無視してやがる。そう思わないか」

 そう思わなかったが、気圧されて頷いた。

 「ありのままを語れと言ってるんだ。急成長を遂げ、強くなる一方の俺たちトルコが、ドイツ人は気に入らないのだ。俺たちトルコ人には友人がいない」

 そしてアリは断言した。

 「俺は知っているぞ。いま、ZDFの電話回線は大変なことになっている。ドイツ国内350万人のトルコ人が、あの無礼な実況に抗議して一斉に電話をかけているのだ」

 そんなニュースは知らなかった。どうやって知りえたのか尋ねると、アリは「質問の意味がわからない」という顔で、繰り返した。

 「ZDFが大混乱に陥っているのだ」

 すべては、アリの脳内での出来事であった。

 俺は、この実況が許せない。すべてのトルコ人も憤慨しているに違いない。怒りに張り裂けそうな俺は、いますぐにでもZDFに殴り込んでやりたい。すべてのトルコ人が、同じ心境のはずだ。だから、ZDFにはトルコ人の抗議が殺到しているに違いない──。

 その夜、トルコは強敵ポルトガルに押し切られた。男たちの賭け事は試合後まで続き、試合を観続けた人々もロスタイムにラウル・メイレレスの追加点が決まると、そそくさと席を立った。アリはもういなかった。

 ミュンヘン郊外の北と南には、巨大なトルコ人移民街が存在する。冷気を含んだ暗い道端に、歓喜の行進ができなくなって途方に暮れるトルコ人たちの影が浮かんでいた。

 トルコはグループリーグで帰国の途につくだろう。次のスイス戦で、きっと首を刎ねられてしまうのだ。

 ドイツ国境の街バーゼルの駅前広場は、その日、燃え盛る炎に包まれていた。トルコの赤とスイスの赤が睨み合い、椅子やボトルが派手に飛び交った。商店街の窓が叩き割られ、女性や子どもが悲鳴を上げて逃げ惑う──すべては筆者の脳内の出来事だった。

 トルコにとって、スイスは恨み骨髄の敵である。ドイツW杯の予選プレイオフで両国は激突し、トルコが苦杯を舐めた。ホームで行なわれた2戦目では乱闘が勃発。トルコはスイス人のゼップ・ブラッターを長に戴くFIFAに処分された。あの屈辱と恨みを、彼らは忘れていない。3年越しとなるスイスとの再会は、格好の復讐の場になるはずだった。

 ところが、バーゼルは拍子抜けするくらい平和だった。赤いシャツと旗で着飾った幸せそうなスイス人とトルコ人が、トラムに詰め込まれて競技場へと運ばれていた。

 バーゼルにやって来たトルコ人は、本国で暴れている「本格派」とは趣が異なった。身なりが小奇麗で、話のわかる顔つきをしていた。そして下手なトルコ語と流暢なドイツ語や英語、フランス語などを操る。下手をすると、スイス人と区別がつかなかった。ファンの大半は、西側に暮らす移民たちだった。「本格派」たちは経済的な事情によって、アルプスにやって来ることができなかった。そのためトルコは迫力がなく行儀がいい、少数のファンに支援される人畜無害のチームに成り下がったのである。

 スイスに暮らしている2世のトルコ人が、爽やかな笑顔を浮かべて言った。

 「わたしたちはスイスに暮らしているので、引き分けで十分だと思っています」

 「本格派」が聞いたら、暴れ出すだろう。

 生き残りをかけたスイス戦を、「トルコ人で超満員になるぞ」と教えられた「カフェ・イスタンブール」で観ることにした。

移民として生きることはトルコ人の一部を捨てること。

 豪雨の中、カフェを見つけて飛び込むと、店内は静まり返っていた。たった十数人の移民が畏まった様子でテレビを見上げていた。ガランとした店内では、『一大決戦を見つめるトルコ移民』の様子を市民に伝えようと、地元局がカメラを回していた。

 テレビ画面の中では、泥まみれのスイス人とトルコ人が縺れ合っていた。32分、スイスが先制する。決めたのは皮肉にもトルコ移民のヤキンだったが、非難の声は上がらなかった。やがて、カフェの主人がスイスの小旗を手に小躍りし始めた。『スイスへの服従を誓うトルコ人』を嬉々として演じたのだ。

 呆れ果てて店主の舞いを眺めていると、穏やかな目をした男が話しかけてきた。

 「トルコが失点したのは残念ですが、ヤキンを攻撃しようとは思いません。スイスで生計を立てている彼が、スイスのために働くのは当然です。それがプロではないでしょうか」

 男は14年前、生活のために家族を連れてスイスに移民してきた。

 「差別がないとは言わない。でも、僕たちは門戸を開いてくれたスイスに感謝もしている。トルコには帰りたいけど、難しいですね。僕たちには僕たちの生活がありますから」

 すべては生きていくためである。そして新天地で生きていくには、新天地の色に染まらなければならない。それはトルコ人として何かを捨てるということでもある。

 テレビでは、あっさり引き下がると思われたトルコが奮戦していた。セミフが同点弾を叩き込み、試合は「友愛の再会」にふさわしく引き分けに終わるかと思われた。「カフェ・イスタンブール」の人々も不足はないだろう。だが、タイムアップ寸前に恐ろしい事件が起こった。左サイドから果敢に切り込んだアルダが、開催国の望みを断ち切るミドルを突き刺す。その瞬間、「カフェ・イスタンブール」は節度をもって爆発した。祈るように画面を見つめていた少年が、飛び跳ねながら路地に飛び出した。暗闇の中で少数のトルコ人が奇声を上げながら走り回っていた。

 トルコは崖っぷちで踏みとどまった。チェコに勝てば、準々決勝進出が決まる。それにしても信じられない逆転勝ちだ。もしかすると、次も勝てるかもしれない。

(以下、Number707号へ)

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