誰も知らない森保一BACK NUMBER
「給料が8万円しかなくて…」18歳だった森保一監督が“初任給”で送った2万円…両親への手紙に書いた“意外な言葉”「ポロポロ泣いていた」
text by
木崎伸也Shinya Kizaki
photograph byJ.LEAGUE
posted2024/02/29 11:02
1993年、Jリーグ開幕時の森保一(当時24歳)。“無名の高校生”だった森保がJリーグにたどり着くまでには想像以上の苦労があった
「お恥ずかしい話だが、入社早々の4月、僕はホームシックになってしまった。やってやるぞ、と意気込んで、マツダのサッカー部の一員になったのだが、マツダのレベルは思った以上に高く、ショックを受けてしまったのである。この先、果たしてやっていけるのだろうか、と考えると不安で不安で夜も眠れなくなってしまったのだ。そんな時、長崎の駅に見送りに来てくれた友人や知人たちの激励の手紙を読み返しては、ポロポロと涙をこぼしていたのだった。2段ベッドの下で天井を見上げながら、よく泣いた。高校を卒業したての18歳。今思えば、まだまだ子供だったのだ」
夜な夜な涙するほどつらい状況でも、両親が心配しないように配慮する――本当に芯が強い人間にしかできないことだろう。
◆◆◆
森保は家族愛だけでなく、故郷愛も人並外れている。
岩本によると、森保の弟・洋がサガン鳥栖アカデミーダイレクターの任期を終え、次の行き先を悩んでいるとき、森保は「サッカー人として育ててくれた故郷・長崎に恩返しすべきじゃないか」とアドバイスしたという。兄の教えを受け、弟・洋はV・ファーレン長崎アカデミーの指導スタッフに就いた。
森保は故郷に恩返しをしたいという気持ちが強く、樋口は「いつかV・ファーレン長崎を率いてくれるはず」と期待している。
家族や故郷との特別なつながりは、人に理屈抜きのエネルギーを与える。
森保にとって家族や故郷の存在が、エクストラのパワーになっているに違いない。
<続く>
森保一(もりやす・はじめ)
1968年8月23日、静岡県生まれ。長崎県出身。1987年に長崎日大高を卒業後、マツダサッカークラブ(現・サンフレッチェ広島)に入団する。現役時代は、広島、仙台などで活躍し、代表通算35試合出場。1993年10月にドーハの悲劇を経験。2003年に現役引退後、広島の監督として3度のJ1制覇。2018年ロシアW杯ではコーチを務め、2021年東京五輪では日本を4位に、2022年カタールW杯ではベスト16に導いた