誰も知らない森保一BACK NUMBER
「給料が8万円しかなくて…」18歳だった森保一監督が“初任給”で送った2万円…両親への手紙に書いた“意外な言葉”「ポロポロ泣いていた」
text by
木崎伸也Shinya Kizaki
photograph byJ.LEAGUE
posted2024/02/29 11:02
1993年、Jリーグ開幕時の森保一(当時24歳)。“無名の高校生”だった森保がJリーグにたどり着くまでには想像以上の苦労があった
「『天才より』って書いたのは、きっと森保なりのやさしさですよ。お父さん、お母さん、自分は元気でやっているから心配しないで、という印象を与えたかったんだと思います。
最初は本当に大変だったと思うんですよ。1人だけ子会社の採用で、いわばテスト生みたいな部分があった。今西和男さんとハンス・オフト監督との出会いで才能を開花させるわけですが、両親も心配していたと思います。だからあえて『天才』と書いて、両親を安心させようとした。あいつはそういうやつですよ」
「もう辞めたか…」
当時、オフト監督がヨーロッパ流のプロフェッショナリズムをマツダにも求め、新卒選手が1年を経ずに次々に戦力外になっていた。たとえば森保の1つ上の代では、新卒6人中3人が夏までに1軍を去った。
1軍から放出されても、会社をクビになるわけでないのだが、サッカー選手としては実質的な引退を意味する。まだJリーグが始まっていなかったが、プロに近い厳しさがあった。
実際、森保は試合に出られるようになるまでに2年半もかかってしまう。日本リーグ2部でデビューできたのは3年目、1989年9月の大阪ガス戦だった。
森保は仲間にほとんど弱音を吐かないタイプである。だが、このときばかりは違った。長崎日大高校サッカー部の1学年後輩、樋口紀彦(現・立ち飲み居酒屋『ぽいち』店主)はこう振り返る。
「僕が高3のとき、長崎日大高校サッカー部が広島に遠征して、ハジメ君に会うことができたんですね。『どがんですか?』と聞いたら、ハジメ君は冗談混じりに『いや、もう辞めたか』みたいな感じで言いよって。『もう長崎に帰って、九州リーグの三菱重工を受けてみようかな』と。1年目は本当に大変だったと思います」
「ポロポロ泣いていた」
森保は『ぽいち 森保一自伝』(森保一・西岡明彦著)の中で、ホームシックになっていたことを明かしている。