誰も知らない森保一BACK NUMBER
「給料が8万円しかなくて…」18歳だった森保一監督が“初任給”で送った2万円…両親への手紙に書いた“意外な言葉”「ポロポロ泣いていた」
text by
木崎伸也Shinya Kizaki
photograph byJ.LEAGUE
posted2024/02/29 11:02
1993年、Jリーグ開幕時の森保一(当時24歳)。“無名の高校生”だった森保がJリーグにたどり着くまでには想像以上の苦労があった
「森保が東京五輪に向けてU-23代表の監督に就任したとき、嬉しくてお父さんとお母さんのところへお祝いに行ったんですね。いろいろ昔話になって、お母さんが棚から手紙を出してくれて。
宝物なんでしょうね。大切に包まれて保管されていた。お母さんは『岩本君がいつも言っているようにハジメは優しいところがあって』と言って、手紙を全文読ませてくれました。
仕送り額は確か2万円くらいだったと思います。『いつか有名になって父さん、母さんを喜ばせる。そのために頑張るから』といった内容が書いてありました。彼らしいと思ったのは、最後に弟と妹をよろしくと添えてあったこと。本当に家族思いのやつです」
岩本は手紙を読み終えると、胸が熱くなって涙がこぼれた。母・真知子も泣いていたという。
「よく、やんちゃな子供ほど、巣立ったときにかわいいいと感じると言うじゃないですか。森保はやんちゃな一面があったので、ご両親からしたらより感じるところはあったんだと思います」
なぜ「天才より」と書いたのか?
この手紙は森保のやさしさを知れる極めて貴重な資料なのだが、1つ気になる点がある。
最後に「天才より」と書かれていることだ。
当時の関係者が「うまいわけでも、足が速いわけでもなかった」と口を揃えて振り返るように、森保は天才タイプの選手ではなかった。
マツダで1人だけ子会社採用になったことからもわかるように「雑草タイプ」である(※子会社採用については第7回参照)。1993年にJリーグバブルが始まっても大口は叩かず、謙虚な印象の方が強い。
監督になってからもその姿勢は変わらず、言動は謙虚さで満ちている。現在掲げているW杯優勝という目標についても、カタールW杯でドイツとスペインに勝利してから設定したものだ。根拠なく大風呂敷を広げるタイプではない。
家族に向けたプライベートな手紙だったとはいえ、なぜ18歳の森保は自分を「天才」と書いたのだろう?
森保を小学校時代から知っている岩本はこう見ている。