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マルコ・ファンバステン「ある理想主義者の肖像」
text by
木崎伸也Shinya Kizaki
posted2005/10/27 00:00
ファンバステンが逆立ちしてるぞぉ!
今年の9月、オランダ代表の合宿でのことだ。ファンバステンがピッチで見事な逆立ちを始めたのである。補助はない。選手が見守るなか、足をゆらゆらぶらつかせながら、ファンバステンは手だけで立ち続けた。そのときちらっとのぞいた腹筋は、とても3児のお父さんのものとは思えないほどに、しなやかでセクシーだった。女性週刊誌“プライブ”が、すぐに食いついた。見開きで逆立ちシーンを紹介したのである。
「40歳を越えて逆立ちをできる監督が、他にいるだろうか?― 父親として、監督として、こんなに魅力的な男性はいない」
ファンバステンは、不思議な魅力のある人物だ。現役時代に、こんなことがあった。
ACミラン対インテルの“ミラノダービー”で、ファンバステンはインテルのアルド・セレーナに蛇のようにしつこいマークを受けていた。遂に堪忍袋の緒が切れたファンバステンはさりげなくピッチの土を手におさめると、審判が見ていないことを確認して、セレーナの顔に土を投げつけたのだ。見事、土は相手の顔にぐちゃっとかかった。
この一瞬を捉えたハンス・ヘウス氏の写真は、オランダのスポーツフォト大賞の銀賞に選ばれている。カッとなってエルボーを食らわせる選手が多いなか、さりげない“仕返し”を、オランダの人たちは微笑ましく思った。
ファンバステンは金で買えない人物でもある。現役時代、1度だけノンアルコール・ビールのCMに出たことがあった。サンシーロのピッチにヘリコプターで降り立ってビールを飲むというものだ。だが、この出演がきっかけとなり、CM依頼が殺到したため、ファンバステンはそれ以降、全てのCM出演を断った。年俸と同じ額を提示されたとしても。世界的にケチで知られるオランダの人たちが好きにならないわけがなかった。
それはファンバステンが監督になってからも変わらない。相変わらずファンバステンは無愛想だが、彼が指揮するサッカーは攻撃的で、魅力的で、何より強い。オランダ人のプライドを十分に満たしている。
だが彼の指導者としての経験はゼロに近い。オランダ代表監督になる前に、アヤックスユースのお手伝い(アシスタントコーチ)をしていただけだ。
20世紀最高のストライカーだった男は、いかにして名将となったのか。
筆跡学の本によれば、自分の名前をどう書くかで、その人の性格がわかるそうだ。
では、ファンバステンのサインは?
W杯予選の大一番、10月8日のチェコ戦を控えたオランダ代表の合宿は、いつものようにオランダ西部の街、カトバイクでスタートした。練習場のミックスゾーンに、ジャージのポケットに手をつっこんで、ファンバステンがやってきた。サインペン片手に、彼を呼び止める。まわりのオランダ人記者からの冷たい視線が突き刺さったが、なりふり構わずペンと紙を手渡した。
彼のサインは、意外に丁寧なものだった。
ファーストネームの“マルコ”を筆記体に崩して、最後に丸でそれを囲む。長細い楕円の中にきれいにマルコが収まっている感じだ。
ヨーロッパの人気選手のサインは、ミミズがはったような短いものが多い。何十人にもサインをしなくちゃいけないことがあるから、どうしても雑になる。でも、ファンバステンのサインはシンプルながらも、手抜きをした感じはなかった。詳しい筆跡学の知識はないけれど、エゴイストの多いストライカーのイメージとは違って、意外に細かい性格なのかもしれないと思った。
選手たちが語る
指揮官の素顔。
その翌日、オランダ代表のプレスデーがあった。希望すれば、好きな選手にインタビューができるという極めて贅沢な日である。
筆者は迷わずヘドウィヘス・マドゥーロとデニー・ランツァートに申し込んだ。彼らは現在のオランダ代表のレギュラーであり、ファンバステンが目指しているサッカーを熟知したMFだ。
まずはマドゥーロと向き合う。彼はまだ20歳。ジャイアンのようなゴツイ見た目をしているが、かなりの理論家である。
──ファンバステンは、どんな人?
「アヤックスユースのコーチ時代から、この人には監督としての才能があると思った。ポジショニング、プレスのかけ方、パスの出し方、いろんなことを教わったよ。今年のワールドユースのときは、SMS(携帯メール)もくれたんだ」
──ファンバステンが、携帯メール?
「そう。『がんばれ。みんなを引っ張れ』というのを1回もらっただけだけど、嬉しかった。ファンバステンからは、『オマエはリーダーになれ』と常に言われてきた。アヤックスユースでも、今の代表でも」
──キミはまだ20歳なのに?
「自分のポジションは、3人いる中盤の真ん中、つまりオランダで言うところの6番だ。試合をコントロールする役目を任されているから、リーダーシップが求められる。自分にとって最適のポジションだと思うから、年齢は全く気にならないよ」
オランダといえば、4-3-3が定番。だがファンバステンの場合、やや昔のスタイルと違うところがある。戦術を詳しく教えてと言うと、マドゥーロはこちらのペンをとって、ノートにフォーメーションを書き始めた。
「サッカーは、数学だよ。誰がフリーマンになるかが最も大事なんだ。オランダ代表では、オレが中盤の底で、右上にランツァート、左上にコクがいる。トップ下の空間は、誰もいないのが、昔のオランダサッカーと違うところだ。そのスペースに、ランツァートやコクが飛び出していくので、彼らのカバーをするのが、オレの役目だ」
──それはオランダの戦術?― それともファンバステンの戦術?
「そのどちらでもある。固定したトップ下がいない分、昔のスタイルよりフレキシブルになったと言えるだろうね。MFの3人には、考える力が要求される」
──数学は好きなの?
「いや、そっちの計算は嫌いだ(笑)」
次はランツァートに訊いた。彼は29歳。アヤックスでは芽の出なかった遅咲きのMFだが、今やダービッツやスナイデルを押しのけ、レギュラーに定着している。
「自分の仕事は、とにかくバランスをとること。左のコクと常にお互いを見合って、ポジションを気にしている。このポジションには、攻撃と守備両方の能力が要求される。でも、自分はこのポジションを最も得意にしているから問題ない」
──チェコ戦はコクが出場停止だけど?
「代わりに入るファンデルファールトは、コクより攻撃的だ。彼はこっちを全然気にしないタイプだ(笑)。だから、いつも以上にバランスに気をつけなくちゃいけない」
──監督とは、戦術について時々話す?
「時々なんて、もんじゃない。いつもだ。彼にとって戦術は欠かせないものだからね」
ふたりの言葉に共通すること──それは“バランス”だった。ふたりとも考える力があり、ピッチ上での鋭い洞察力を持つインテリジェンスのある選手だ。パワーのあるセードルフが招集されず、彼らがレギュラーに定着しているあたりに、ファンバステンのサッカー観がにじみでている。理想的な攻撃サッカーを追求するために、テクニックのあるファンタジスタよりも、インテリジェンスのある選手を好む。1本のパスではなく、連動性やフリーランニングで流れを変えることができる男たちである。現在のオランダ代表は一見“地味な”選手が多いのに、驚くほどの攻撃サッカーを展開しているのは、このあたりに秘密がある。
だが戦術だけで務まるほど、ナショナルチームの監督は簡単じゃない。彼の監督としての求心力はどこに由来するのだろうか。
そのあたりのことを聞くには、幼い頃からファンバステンを知っている人物がいいだろう。かつてジェフ市原でプレーし、現在ヘラクレス・アルメロ(平山が所属するチームだ)の監督をつとめるペーター・ボスに会った。彼はU-19から、ずっとオランダ代表でファンバステンとプレーしてきた。
──世間ではFWは、名監督になれないというような通説があります。でも、ファンバステンは違った。いったい、なぜですか?
「ストライカーは普通キャプテンをやらないけど、ファンバステンはユースの頃から、常にキャプテンだった。チームメートのこと、試合のこと、ピッチのこと、全てに気を配って考えてプレーしていた。とっくの昔から、彼は監督のようだったんだ」
ファンバステンには、生まれながらにリーダーとしての素質があった、ということだ。無口で自分の感情を表に出さないが、想像以上に周りのことを考えるタイプなのだ。
そして彼には内に秘めた覚悟がある。
昨年4月、こんな乱闘騒ぎがあった。アヤックス対フェイエノールトの2軍の試合で、アヤックスのサポーターがピッチになだれ込み、フェイエノールトの選手と監督を襲撃した。MFアクーニャが気絶し、病院送りになった事件だ。このときファンバステンは、アヤックスのベンチにコーチとして座っていた。アヤックスファンがフェイエノールトのベン監督にナイフで襲い掛かろうとしたとき、ファンバステンはそのファンの前に立ちふさがった。自らが刺されるリスクを冒しても。
チェコ戦前の記者会見で、ファンバステンは語った。
「強豪相手にどこまで自分たちの攻撃サッカーができるかを試す絶好のチャンスだ。自分たちが、世界のどの位置にいるかを知る試合になる」
その言葉どおり、オランダはいつものように攻撃的だった。だが、流れによっては無理をしない。理想と現実の折り合いをつけた大人のサッカーで、“宿敵”チェコを相手にせず、ファンデルファールトとオムダムのゴールで快勝。2大会ぶりのW杯出場を果たした。
試合後、選手がファンの前ではしゃぐなか、ファンバステンはずっとベンチの前に立っていた。いつものように無表情で、特に何を成し遂げたというわけでもなく。1度だけメインスタンドに向かって手を振っただけだ。実はファンバステンは世界の代表監督の中で一番早く、W杯期間中のドイツのホテルを予約している。
試合後にファンバステンはこう語った。
「支配的なサッカーという一面だけを誇張してはいけない。90分支配することは誰にもできないんだ。試合には意図を持つことが必要だ。意図という旗印があってこそ、私たちは勝つことができる」
これまでのオランダ代表には、理想を実現するための執念が足りなかった。理想を抱えているだけで満足する部分がどこかにあった。だがファンバステンは選手時代に、「敗者には何もない」ということを痛いほど味わっていた。ACミランで数々のタイトルを取ったが、代表では'88年ユーロを制しただけで、W杯ではいいところがなかった。
「美しいサッカーなら、負けてもいい」というこれまでのオランダの美学は、単なる甘えにすぎない──ファンバステンは、そう考えたのではないだろうか。氷と鉄で作ったような仮面の中に、どんなことにも惑わされず、理想を追い求める覚悟がある。
たとえドイツの空に高々とW杯を掲げたとしても、マルコ・ファンバステンが笑うのは一瞬のような気がしてならない。到達した理想は現実に過ぎないから。