革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
「そのことは、改めてお話しします」野茂英雄“2軍落ち直訴”の噂に本人を直撃も…31年後に阿波野秀幸が教えてくれた答え「あれが決定的だった」
text by

喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byTakahiro Kohara
posted2025/05/16 11:02
取材に対応する、現役時代の野茂。1994年、事件の噂を聞いた筆者も本人を直撃すると…その返答は意外なものだった
31年ぶりの告白
ただ、31年後の今、私も正直にその裏事情を明かしてみたい。
サンケイスポーツは当時、夕刊を発行していた。大阪管内は、JR大阪環状線内の駅売店で売られる紙面だが、夕方に書いた原稿をそのまま朝刊に掲載するのは、そのニュース性や時間の経過を考えれば、タイムリーではなくなるため、大抵は夕刊読み切りのものになる。だから、先輩記者たちはあまり書きたがらない。
必然的に、若手記者にお鉢が回ってくる。
ADVERTISEMENT
「なんか、おもろい話ないんか?」
上司からそう聞かれて「ありません」と言える度胸はまだない。そんな返答をすれば「お前、仕事ちゃんとしとるんか?」と怒鳴られるのが関の山。だから「夕刊で止めてくれますよね」とお願いした上で、実はこの“野茂激怒事件”を書いたことがある。
「おもろいやん、これ」
そのまま翌日の朝刊にも残そうという話も出たのだが、それだけは阻止した。その日は比較的、温厚なタイプのデスクが朝刊の編集担当だったから、私の“泣き”も受け入れてもらえたが、強引な鬼デスクだったら、そのまま朝刊に原稿が残ってしまい、野茂が「書いたんですか?」と抗議してくるようなところだ。
阿波野が教えてくれたこと
ただその後、野茂から、あの日の回答を聞くチャンスはついぞ、訪れなかった。
阿波野秀幸が「これはアカンな、と思った決定的なことだった」と明かしてくれたこのエピソードが、31年ぶりの“答え合わせ”だった。
野茂と鈴木。エースと指揮官。その“すれ違い”は、乗り切れないチームを象徴するかのようだった。こうした背景が分かっていたから、あの蒸し暑い夏の夜の“珍事”も、2人の確執の象徴のように見えてしまったのだ。
7月1日、西武球場で、野茂の「191球完投」という仰天の出来事が起こった。
〈つづく〉

