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「忘れられない警察の取り調べ」東大を卒業して高校野球監督になり、“不良”野球部員から学んだこと「昔はバックネット裏で勉強させていた」 

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沼澤典史

沼澤典史Norifumi Numazawa

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posted2023/07/31 17:58

「忘れられない警察の取り調べ」東大を卒業して高校野球監督になり、“不良”野球部員から学んだこと「昔はバックネット裏で勉強させていた」<Number Web>

熊谷高校の監督時代、ノックを行う蒲原弘二郎(東大野球部出身)

「大学4年になると、三角監督が気にかけてくれて、伊奈学園時代の教え子さんを紹介してもらいました。その人はのちにスポーツ鍼灸・接骨院を北大宮で開業するような方で、丁寧に体を見てくれたおかげで痛みは消えました。もっとも、実力はなかったので、リーグ戦出場はおろかベンチにも入れず、4年生の頃はずっとバッティングピッチャー専門。野手陣の中では、長く投げられるバッティングピッチャーが嬉しいらしく、自分は治療のおかげで痛みもなく長い時間投げられたのがよかったようです」

 試合には出られないが、チームの中にしっかりと自分の居場所を感じることで、蒲原の野球へのモチベーションは切れることはなかった。野球部をやめようと思ったことは一度もなかったという。

 そして4年生の秋のリーグ戦、最終カードの相手は立教だった。前日に負けた東大は、今日を勝って明日につなげたいと誰もが思っていたが、当時の立教のエース・上重聡(現日本テレビアナウンサー)は絶好調。スタンドで観戦する蒲原の前で東大は完全試合を食らい、蒲原の大学野球は幕を閉じた。

「負けることには慣れていても、完全試合というのは、応えますよ。あわやヒットになりそうだった打球は、たった1本ですから。『もうおまえら、野球やめろよ』って言われているように感じたし、自分としても『その通りかもな』という、変な納得感がありました。4年間をやりきった達成感もなく、あっさりと『あぁ、終わったな』という思いでした。ただ、下手くそなのに、4年間選手として在籍できたことは嬉しかったし、選手を続けさせてくれた三角監督には感謝しています」

「高校野球を埼玉県でやってみないか?」

 蒲原は工学部を4年で卒業後、大学院へ進学。上重聡の完全試合のトラウマを思えば野球との縁はしばらく切れそうなものだが、大学院在学中に六大学野球の審判員のオファーを受けた。六大学野球の審判は各大学のOBが務めることと決まっており、若手で時間にも余裕のある蒲原に白羽の矢が立ったようだ。

「1年くらいならいいかなと軽く返事したのですが、いざ始めてみると、そう簡単にやめてはいけないと思いました。結局、審判は13年間やりましたが、それもあって当時は就職をどうするか迷ってしまい、修士論文は書いたものの単位認定はしてもらわず、大学院に3年いました。3年目は研究室でアルバイトをしていましたね。でも、さすがに就職しなければと思って、三角監督に進路について相談したんです。そしたら、『高校野球を埼玉県でどうか?』と。その言葉で教師を目指すことにしました」

「バックネット裏で勉強させていた」

 恩師に道を照らされた蒲原は、埼玉県の教員採用試験に合格したのち、2004年に熊谷高校に赴任する。だが、大学野球の審判を優先すべく、身軽な体でいたかった蒲原の思いとは裏腹に、熊谷高校では野球部の監督に任命されてしまった。

【次ページ】 「バックネット裏で勉強させていた」

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