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「冨安を試合に出さないでくれ…」「本当にまだ4年生?」“スーパー小学生”だった冨安健洋(24歳)…恩師に聞いた小中時代のスゴい伝説
posted2022/11/20 17:04
text by
栗原正夫Masao Kurihara
photograph by
Getty Images
「あれで、本当にまだ4年生?」
冨安健洋の周辺を取材していると、小中学生時代の様々な伝説が聞こえてくる。
冨安が小学1年から6年まで所属していた地元・福岡市の三筑キッカーズ総監督の辻寛二さん(72歳)は、小4のときにはすでに体は6年生並みで、6年生が中心のトップチームに出場していたと言う。
「3年生までの頃はタケのプレーレベルがあまりに高過ぎて対戦相手の監督から『同じ学年では相手にならないので、(冨安を)出さないでくれ』なんて冗談半分に頼まれたこともありました(笑)。それくらいタケは断トツの存在。体が大きくて足も速かったので、試合ではDFながらドリブルでぐんぐんと前進して……。6年生のチームに入っても普通にプレーしていましたし、よくタケがドリブルすると『あの子は止められんばい。あれで、本当にまだ4年生?』って驚かれたものです」
「大分や宮崎のチームからも“試合をさせてくれ”」
辻さん率いる三筑キッカーズは、1992年にサッカー経験者のいない少年チームとしてスタートした。冨安は小1だった2005年に入団。その名は九州中に広がり「ぜひ冨安くんがいる三筑と対戦したい」と試合の申し込みが殺到したと振り返る。
「福岡だけじゃなく、佐賀や長崎までタケの存在は知れ渡って。大分や宮崎のチームからも試合をさせてくれと連絡がありました。試合や大会ではメンバー表が出ますから、みんなそれを調べて連絡してくるわけです。私もいろんな土地に遠征するのはいい勉強になると思ったので、そういう縁は大切にして、よく県外に試合に行きました。同じ福岡のチームだと大会で当たる可能性があるので、練習試合はあまりやりたくないと考えていたこともありましたし。
佐世保(長崎)や阿蘇(熊本)にも行きましたが、いちばん遠かったのは鹿児島の桜島。福岡市内からは高速を使い、車で5時間ほど。朝3時に学校に集合し、8時頃には現地に着いて、多いときには1日4試合、少ないときでも3試合はやりました。そんな他県のチームと交流できたのも、タケの存在があったからこそ。当時は年間300近く試合をやっていましたが、7、8割は勝っていましたね」