甲子園の風BACK NUMBER
「金の好きな欲望ジジイ」甲子園連覇の名将に40年越しの告発文…“日本で最も愛された監督”蔦文也は何者だったのか? あのPL学園との名試合“本当の敗因”
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田中仰Aogu Tanaka
photograph byKatsuro Okazawa/AFLO
posted2025/08/02 11:02
1983年夏、池田高校のそれまで甲子園連勝が「11」で止まった日。準決勝でPL学園に敗れた
それでも4年時は主将も務めた。卒業後は中学校の教師を10年勤めるも、高校野球監督の夢を諦めきれず、採用試験を受け直して高校教師になった。勝浦高校、徳島商業、穴吹高校の野球部監督を経て、2016年、母校の監督に就任した。
――大学で主将、それに他校の監督も務めた。経験的に自分だったら蔦さんを超えられる。池田に戻ってきたときはそう思っていたんじゃないですか。
「それは、ないです。というより知りました。もう一度、蔦文也を」
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井上はグラウンドの奥、吉野川の対岸を眺めた。濃くて深い霧が西山を覆っていた。そこに高校時代、井上が何度も走らされた坂道がある。
「蔦野球を否定していました。でも現実、今の池田は勝てていない。水野さんをはじめ偉大な先輩はいます。野球理論で上回る人もたくさんいると思う。でも、池田の野球って結局、蔦さんなんです。やればやるほど気づくわけです。だって、この地から優勝させたんですよ。信じられますか?」
蔦文也とは何者だったのか?
池田が甲子園で勝ち続けた時代。蔦は素人同然の監督だったと多くの関係者が証言した。だが、と思うのだ。野球エリートと呼べた蔦は、野球を知らなかったのでなく、野球を教えることそのものに関心が向かなかったのではないか。では特攻隊で生き残った蔦は、子どもたちに何を伝えたかったのか。
「山あいの子どもたちに一度でいいから大海を見せてやりたかった」。蔦の言葉を再び読み、そして考えた。蔦がいなければ池田の時代は到来しえなかった。したたかさと無警戒さ。情熱と功名心。理想よりも俗的なものを求めた。不正義も虚像も含んでいた。チームが一枚岩というわけでもなかったし、英雄視された攻めダルマはその純粋さを濁らせてもいた。それでも、蔦が残したものはたしかにあった。そしてそれは、大人が若い世代に伝えられる極上の教訓にも思えた。
「あの時代に池田町から全国優勝するという志はぶっ飛んでいたと思う。じいちゃんの時代があったから、町の人たちの目線が外に開かれた。池田町に生まれた僕らだって、世界に目を向けていいんだと」
池田の黄金時代は何を残したか。蔦文也の孫、哲一朗の回答である。




