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夏春連覇“あの名門公立校”なぜ甲子園から消えた?「美談は言わないよ」現地取材でポツリ…日本中が熱狂「神様になった監督」池田高野球部のナゾを追う

posted2025/08/02 11:00

 
夏春連覇“あの名門公立校”なぜ甲子園から消えた?「美談は言わないよ」現地取材でポツリ…日本中が熱狂「神様になった監督」池田高野球部のナゾを追う<Number Web> photograph by NumberWeb

1980年代初頭、超攻撃野球で社会現象を巻き起こした名門・池田高校(徳島県三好市)

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田中仰

田中仰Aogu Tanaka

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超攻撃野球で1980年代初頭の高校野球界に衝撃を与えた池田高校。チームを率いた蔦文也は本当に英雄だったのか? なぜ最強時代は終わったのか? 平成生まれの記者が“日本で最も愛された野球部”の謎に迫った。【全3回の1回目/2回目へ】

◆◆◆

 きっかけは2年前の冬、車窓から見た風景だった。

 四国のほぼ中央を縦断するJR土讃線の特急「南風」に乗った。高知駅から香川・琴平方面へ15分も経てば、列車は山岳地帯に分け入っていく。大歩危小歩危の急峻な渓谷を過ぎると、四方を山に囲まれた小さな町に停車する。阿波池田駅。ひょっとして、と察した。絵に描いたような山間。ここにあの池田高校がある。そして、たじろいだ。この地から甲子園で優勝したのかと。

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 甲子園で優勝3回、準優勝2回。とりわけ黄金期といわれる1982年夏から、池田の勝敗表は美しいまでに白色が並ぶ。1982年夏と83年春を連覇し、同年夏の準決勝でPL学園に敗れるまで、じつに甲子園11連勝を飾った。

 1992年生まれの私は「池田の時代」を知らない。リアルタイムでその時を生きた1974年生まれのNumberWeb編集長は、池田のファンだったという。彼が記憶する池田でとりわけ鮮烈だったもの。それは野球のスタイルだった。上半身と太ももがムチムチに鍛えられた地方の子どもたちが全国的な強豪を次々に倒す。それも打ち勝った。「バントや小細工は不要。打てばいい」。単純明快な方法が衝撃だったのだと編集長は力説した。

 車窓に映った池田町の寂しげな光景を思い出した。なぜ山間の公立校が優勝できたのか。なぜ池田の時代は終わったのか。

蔦文也の孫が東京にいた…

 下調べで大きな流れはわかった。日本中が池田に熱狂していた時代があった。蔦文也という人物が野球部を率いていた。守備と小技が重視されていた当時、打撃に特化したスタイルは革命的だった。それまでの木製バットから飛距離が出やすい金属バットへ移行したことも池田の野球に追い風となった。だが蔦の退任後は低迷期に入った。1992年を最後に夏の甲子園に出場していない。

 蔦は2001年に、その長男も昨年3月に他界している。が、蔦の孫が東京に住んでいるという。映画監督として蔦文也のドキュメンタリー映画を制作していることもわかった。「蔦監督と池田高校について教えてほしい」。電話で依頼すると、すぐに快諾してくれた。

【次ページ】 「じいちゃんを嫌いな人もいる」

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