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「金の好きな欲望ジジイ」甲子園連覇の名将に40年越しの告発文…“日本で最も愛された監督”蔦文也は何者だったのか? あのPL学園との名試合“本当の敗因”
posted2025/08/02 11:02
1983年夏、池田高校のそれまで甲子園連勝が「11」で止まった日。準決勝でPL学園に敗れた
text by

田中仰Aogu Tanaka
photograph by
Katsuro Okazawa/AFLO
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当時、池田野球部のコーチであった川原良正は意を決して蔦文也に直言したという。
「水野(雄仁)が3年生だった頃だから甲子園3連覇をかけた83年夏やね。テレビクルーがずっと密着していた。思うように練習を積めてなかったんよ。それに甲子園期間中もメディアが宿舎に来るわけ。だから『少し控えませんか?』と言ったんやね。だけど聞き入れられることはなかった」
PLに敗れた試合“1つのウソ”
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その夏、ついに池田は準決勝で敗れる。1年生の桑田真澄・清原和博がいたPL学園に0-7という完敗だった。この敗北は次のように形容されている。池田からPL学園に覇権が移った転換点。そして、伝説化されている節もある。3回戦で水野は死球を受けた。あれで調子が狂ったのだ、と。
「私はね、あの死球で負けたというのはないと思う。試合後、記者に答えたんよ。真夏に3連投しようと思ったら、走り込みも投げ込みも必要。でも春以降、水野はほとんど練習できてなかった。それが原因です、って言うた。でも記事にはならなかったね」
川原が語った敗因はメディアが求めるそれとは違ったのだ。死球で調子が狂った。ドラマティックなほうの理由が選ばれたのだ。
「私は今でも、3連覇できたと思っとるんよ。そう確信しとる」
選手が持ってきた“告発状”
川原が蔦に進言したことは他にもある。練習にあまり姿を見せなくなったのも、この時期だった。
「講演会の誘いが一気に増えた。日本全国の企業や自治体、学校から。最初は1時間半で3万円からスタートしてたんよ。よく覚えとる。それがどんどん膨らんでいった。多いときは月に25日くらいグラウンドに不在だった。大事な大会の試合中に講演行ったこともあったからね。川原あとは頼む、と言って去った」
蔦の代わりに練習を見ていたのが川原だった。
「もともとそんな人じゃなかったんよ。根は純粋でええ人やし、蔦文也を慕っていい選手が入ったのも事実。それが優勝してから、あまりに周りがチヤホヤするもんだから、暴走したんよな」
そう話しながら目前の机に置かれた一つのファイルを手に取った。「時間も経ったし今ならいいだろう」。川原が取り出した1枚の便箋。それは当時の選手による告発状だった。

