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高校野球の名門・池田高に驚愕の新証言「少しずつ蔦文也はおかしくなっていったんよ」当時コーチが断言する“カリスマ名将の異変”…徳島現地で取材 

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田中仰

田中仰Aogu Tanaka

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photograph byAsahi Shimbun

posted2025/08/02 11:01

高校野球の名門・池田高に驚愕の新証言「少しずつ蔦文也はおかしくなっていったんよ」当時コーチが断言する“カリスマ名将の異変”…徳島現地で取材<Number Web> photograph by Asahi Shimbun

池田高校野球部の監督として甲子園で優勝3回、準優勝2回。「名将」として知られる蔦文也

「練習では川原良正コーチに鍛えられた。試合ではどっしり構えた蔦監督の下で伸び伸びとプレーさせてもらった」(徳島新聞/2022年10月6日付)

 梶田は高校入学時点で外野手だった。事実、2年時も1番センターで甲子園に出場している。だが同学年のエース候補が不調に陥り、川原が突貫でエースに育て上げた。梶田の身長は165cm。大型投手を好んだ蔦が持たない発想だった。当時、川原には選手たちから膨大な数の手紙や作文が送られていること。そして悩みや不満を打ち明けている内容からも、子どもたちの信頼を得ていたことがわかる。

 そこで最後の定説を問うてみた。蔦が残した名言「山あいの子どもたちに一度でいいから大海を見せてやりたかった」。そのために蔦が指導に尽力したという話は真実だったのか。

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「最初はたしかに熱心だったよ。蔦さんは純粋な人。それは間違いない。いろいろ試行錯誤してね。畠山の少し前の代までは小技を絡める戦い方だったから。でも、82年に優勝したぐらいからやね、少しずつ蔦文也はおかしくなっていったんよ」

「蔦は野球素人だった」は真実か?

 池田の関係者に話を聞いていくなかで、見えてきたことがある。蔦は野球指導論に定評があったわけではない。それは川原やOBたちの一致する見解だった。最初はバントや走塁を駆使する戦いを志したが、それでは勝てなかった。たどり着いた諦めの境地とでも呼べる策が、小技を捨てた打撃重視型だったのだ。

 一方で、蔦は野球の素人だった、という説には疑問も生まれる。蔦は現役時代、徳島商野球部員として甲子園に3度出場、同志社大学でもエースとして活躍した。しかし、在学中に学徒出陣で海軍航空隊に所属することとなり、特攻隊の一員として終戦を迎えている。52年、29歳で池田の監督に就任するまでの間、1シーズンではあるがプロ野球チームにも入団した。そんな男が野球素人ということがありえるだろうか。

 話を戻す。関係者を取材して、もうひとつわかったこと。当時の池田町は「異常な空気」に包まれていた。町に大挙して押し寄せる苛烈なメディア攻勢によって蔦は英雄視された。実績もあった。その蔦に意見できる人間は周囲から消えていた。

 川原は意を決して蔦に直言した。そこで返された言葉が今も脳裏に焼き付いているという。

〈つづく〉

#3に続く
「金の好きな欲望ジジイ」甲子園連覇の名将に40年越しの告発文…“日本で最も愛された監督”蔦文也は何者だったのか? あのPL学園との名試合“本当の敗因”
この連載の一覧を見る(#1〜6)

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