甲子園の風BACK NUMBER
高校野球の名門・池田高に驚愕の新証言「少しずつ蔦文也はおかしくなっていったんよ」当時コーチが断言する“カリスマ名将の異変”…徳島現地で取材
text by

田中仰Aogu Tanaka
photograph byAsahi Shimbun
posted2025/08/02 11:01
池田高校野球部の監督として甲子園で優勝3回、準優勝2回。「名将」として知られる蔦文也
川原は池田野球部員時代から野球の探究に熱中していた。1966年に高校を卒業し、日本電電公社に入社。その傍ら、池田が甲子園で初めて準優勝した74年にスタッフに。その後、82年から本格的に野球部のコーチを務めた。当時の池田は2年間、甲子園出場を逃していた。逸材と名高かった畠山準がいたにもかかわらず、だ。最後のチャンスとなった82年夏の前、分析力を見込まれて蔦文也から誘われた。以降、甲子園優勝を果たす水野雄仁(83年春)、梶田茂生(86年春)ら歴代のエースを育て上げた。つけられた愛称は「池田野球部の知恵袋」。現在は隣町の東みよし町で小・中学生を教えている。
「指導力はない。素人監督だよ」
蔦について話を向けると、川原は私の目を見てきっぱり言い切った。
「正直言うて指導力っちゅうのはないね。素人監督だよ」
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ストレートな言葉に思わず詰まった。
「投手は140キロ投げるられるかどうか、打者は遠くに飛ばせるかどうか。(蔦監督の)基準はそのくらいだったね。大会前に連係プレーの練習をすると、『川原、頼むな』と言って先に帰宅していたくらい」
いまや一般論化されている、池田の野球を伝えた。筋トレの積極的な活用、小技より打ち勝つスタイル、徳島全域から才能豊かな子どもたちが集まった集団、そして何より、情熱的に指導する蔦文也像。すると川原は「……と、世間では言われているね」と相槌を打った。私はそれ以上の説明はせずに、つづく川原の言葉を待った。
「まず、筋トレね。練習メニューにあったはあったけど、比重が大きいわけではなかったよ。自分の感覚では練習の7割が打撃、残りの3割が守備や筋トレ。次に、打ち勝つ野球ね。それもたしかにあったけれど、スコア見てみい。結局、優勝した年はいい投手がいたんよ。畠山、水野、梶田でしょう。当時は秀でた投手が1枚いれば勝てた時代だから」
スコアを見た。ともに甲子園を制した1982年夏と83年春、最も点を奪われた試合でわずか3点だった。一方で、82年夏の準々決勝、荒木大輔を擁する早稲田実に14-2、決勝を広島商相手に12-2、83年春の1回戦、2回戦をそれぞれ11-0、10-1で下している。たしかに大量得点が目を引くが、最少失点で抑えた投手陣の力も感じられる。
「蔦文也はおかしくなっていったんよ」
さらに「選手の素質だけで勝てたわけではない」という川原の話も信憑性があった。つまり、池田入学後に選手が育ったのだから勝てたのだと。
86年春センバツの優勝投手だった梶田(現・日本生命監督)は、のちにこう発言している。


