革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
野茂英雄が「俺、アメリカ行けるから」30年ごしの証言で“決定的文書”の存在が明らかに…野茂と団野村が突いた“盲点”「任意引退」のウラ側
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喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKYODO
posted2025/05/30 11:02

野茂は団野村(右)を代理人として交渉に臨み、野球協約を読み込んで決定的な盲点を見つけだした
慌てふためいた球団
前田は、野茂からの「任意引退同意書」を取った後、コミッショナー事務局に問い合わせていた。そこで初めて、アメリカに渡れば、野茂はフリーエージェントとなることを知ったのだ。球団は慌てた。そもそも近鉄は、野茂を放出するつもりなどなかったからだ。
とにもかくにも、野茂の真意を聞き、善後策を話し合う必要が出てきたのだ。
恐らく、前田も八方手を尽くして、野茂にコンタクトを取ろうとしていたのだろう。
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佐野の自宅に、しかも早朝から電話を入れるという異例の行動こそが、事態の危急ぶりを示していた。
同僚たちの危惧
その頃、野茂の僚友たちの間にも“任意引退”の情報が駆け巡っていた。
「本人から聞いていないんですけど『野茂、近鉄辞めて、大リーグに行くみたいやで』って、みんな話していたから、そんなん、無理でしょう、って思って、最初は気にも留めてなかったんです。そしたら、話がだんだん大きくなってきて、いや、本気なんやと。それでも無理やろな、と思っていたんですけどね」
97年オフにFA権を行使してメジャー挑戦を果たす吉井理人は、95年の開幕前、西村龍次との交換トレードでヤクルトへ移籍することになる。自らを取り巻く環境が風雲急を告げている感が強かったという94年オフは、吉井の表現を借りると「自分、それどころじゃなかったんで」。3歳年下の後輩にまつわる一連の大騒動に、関心を払っているだけの余裕がなかったのだという。
それでも、事態は日増しにエスカレートしているのが分かった。野茂の肉声がどこからも聞こえてこない中で、騒ぎ立てる世間の声と、根拠のない噂が吉井の心にも引っかかった。
吉井をはじめ、近鉄の僚友たちが抱いた最大の危惧は、この思いに集約されていた。
あいつ、大丈夫なんか?
このままやったら、野球をやれなくなってしまうかもしれないんじゃないのか?
〈つづく〉

