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野茂英雄が「俺、アメリカ行けるから」30年ごしの証言で“決定的文書”の存在が明らかに…野茂と団野村が突いた“盲点”「任意引退」のウラ側
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喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKYODO
posted2025/05/30 11:02

野茂は団野村(右)を代理人として交渉に臨み、野球協約を読み込んで決定的な盲点を見つけだした
日本の「任意引退」は、米国では「フリーエージェント」と解釈され、日米間でその覚え書きも存在していた。日本の野球協約は“国内法”に過ぎないのだ。
だから、95年2月9日付のロサンゼルス・デイリーニュースは「北米の球団と話し合いを持つ許可を得るために、野茂は日本の球界から引退せざるを得なかった」と報じた。またロバート・ホワイティング著「野茂英雄 日米の野球をどう変えたか」(PHP新書)では、野茂が「任意引退」してメジャー挑戦したことを「野球亡命」という造語で評している。
いずれも、この事態を端的に表現していると言えるだろう。
球団の「脅し」を逆手に?
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野茂と団野村は、こうした協約の解釈をきっちりと押さえていた。契約更改交渉の席上、複数年契約を要求した野茂と単年契約を提示した球団側は決裂。その時、野茂は球団側から差し出された「任意引退同意書」にサインをしたのだという。
野茂と球団とのやりとりは、こう読み取れる。
球団側にすれば、契約交渉に際しての一貫した姿勢を見せ、強硬な野茂側へのいわば“ブラフ”のつもりで「任意引退」を突きつけたのだろう。
「完全に脅しだよ、もう、野球やらせへん、っていう」
佐野も、野茂からその一連の詳細を聞いた際、驚きを隠せなかったという。
「球団から、任意引退の紙、出してくれたんよ」「ホントか、それ?」
こちらの言い分をくみ取ってもらわなければ、近鉄はおろか、日本の他球団でもプレーができないという、いわば忠告の意味合いも含まれているわけだ。
日本でもう野球をやりたくない
ただ、その時点で『任意引退=メジャー挑戦』ではなかったと佐野は断言する。
「あの時、近鉄主導でトレードの可能性もあったんでしょ? でも、野茂はトレードを打診されても、任意引退の“道”に行ってたよ。メジャーに行きたい、じゃなくて、日本でもう野球をやりたくない、だったから。極端な話、給料ゼロでもいいから、向こうでチャレンジできるんやったらやりたいと、あの騒動の中で野茂がそう言ってたのを覚えてる」