革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER

野茂英雄が「俺、アメリカ行けるから」30年ごしの証言で“決定的文書”の存在が明らかに…野茂と団野村が突いた“盲点”「任意引退」のウラ側 

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喜瀬雅則

喜瀬雅則Masanori Kise

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posted2025/05/30 11:02

野茂英雄が「俺、アメリカ行けるから」30年ごしの証言で“決定的文書”の存在が明らかに…野茂と団野村が突いた“盲点”「任意引退」のウラ側<Number Web> photograph by KYODO

野茂は団野村(右)を代理人として交渉に臨み、野球協約を読み込んで決定的な盲点を見つけだした

早朝の電話

 1994年の年末、ある日の早朝のことだった。

 佐野の記憶では、午前7時頃だったという。自宅の電話がけたたましく鳴り響いた。

「おー、佐野君か。前田やけどな」「前田? えっ? どこの前田さんですか?」

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「近鉄の前田や」「えっ、社長ですか?」

 早口で、ちょっと甲高いその声が、事態の急展開ぶりと事の大きさを表していた。近鉄球団社長の前田泰男が、佐野の自宅に早朝から電話をしてきたのだ。

 当時はまだ、携帯電話もそれほど一般的ではなかった。

 私たち番記者も、他紙にニュースを抜かれたりしていたら、それこそ夜が明ける前に容赦なく、自宅の電話を鳴らされた。寝ぼけた声で電話に出ると、上司から「寝とる場合か」と怒鳴られ、すぐにその裏を取るよう指示されたものだった。

 前田の声は、慌てていた。

「野茂、どこにおるか知らんか?」

野茂側の主張

 佐野は、野茂本人から、球団から突き付けられた「任意引退同意書」にサインしたことを聞かされていた。

「その時に言ってたのは」

 そう前置きして佐野が明かした野茂の言葉が、今回の事態における“核心”でもあった。

「俺、アメリカ行けるから」——。

 その背景は、1995年のドジャース・野茂英雄の戦いぶりを振り返った昨年の連載「近鉄を過ぎ去ったトルネード」でも詳しく取り上げたのだが、今回もここで改めて、簡潔に振り返っておきたい。

 フリーエージェント制度は、1993年オフに導入されていた。しかし、当時の野茂にあてはめると、権利を得るまで「1軍登録9年」が必要だった。当時は公傷制度もなければ、先発ローテーションの関係で、登録を抹消されての調整期間を取ったとしても、その抹消されている間は1軍登録にカウントされない。

 9年とはいっても、故障でもすれば、それこそ10年以上はかかる。そこから“自由”を掴めても、投手としての全盛期が過ぎてしまっている可能性は大だ。

 そこで、12月13日に設定された第1回契約更改の席上で、野茂は「複数年契約」を球団側に要求した。その“保証された時間”の中で、全力を尽くし、仲間たちと優勝の美酒を味わいたい。FA権を取得するまで、近鉄で頑張るという意思表示でもあるだろう。

【次ページ】 球団側の主張

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