革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
野茂英雄に「このまま死んだら思いを伝えられない。ただ、ひたすら頭を下げたいんです」最大の盟友・佐野重樹の悔恨と「1994年の野茂の決断」の真相
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喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKYODO
posted2025/05/30 11:00

1994年、自主トレをともにする佐野重樹と野茂。のちにトラブルを起こしてしまった後悔、そして94年の真相を佐野が語った
1994年、野茂を巡る動きは、目まぐるしく、かつセンセーショナルだった。
開幕戦、あと一歩でノーヒットノーランからの9回途中降板、そして逆転サヨナラ負け(連載第1回〜第5回)に始まり、遠征中の「朝帰り」で僚友・小池秀郎が2軍落ちしたことに端を発した野茂の“2軍降格直訴事件”に、191球・16四球での完投(連載第6回〜第10回)を、ここまで詳述してきた。
“野茂故障”のプレスリリース
この後、夏の盛りを迎える頃、野茂は相次ぐ故障禍に見舞われることになる。
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7月15日のオリックス戦(グリーンスタジアム神戸=当時)に先発しながら「いつもと痛みの感じが違う」と右肩の異常を理由に2回3失点で降板した。
かつての取材メモに、近鉄球団からのプレスリリースのコピーが挟まっていた。近鉄のロゴマーク入りの用紙に書かれていたその説明には、やはり衝撃的な響きが感じられた。
☆登録抹消(7/22) 野茂英雄
オールスター明けの21日、福岡市内の病院で右肩の再検査を受けました。その結果「右肩関節包の炎症」で一週間程はボールを握らないようにと診断されました。
この期間、福岡市内のホテルに滞在し、病院へは通院という形で治療にあたります。
実は当時の文面には、病院名もホテル名も明記されている。昨今は、プライバシーに関する情報という判断で、通院先や宿泊先を球団から発表することはない。便宜上、報道陣に伝えられることはあるが、報じることは認められないという注釈がつく場合がほとんどだ。
最後の登板
このプレスリリースから、およそ1カ月後。逆転優勝への弾みをつけるという大きな期待を背負い、野茂は治療とリハビリを経て、8月24日の西武戦(西武ライオンズ球場=当時)で、40日ぶりの先発マウンドに立った。
しかし、右肩痛が再発、3回を終えた時点で降板すると、それ以降、94年のシーズン中に、野茂が1軍に戻ることはなかった。
〈つづく〉

