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“伝説のルーキー”近藤真一の快投で「もうクビだと思ったんです」中日レジェンド・山本昌が「島流しと一緒」失意の米国で手にした“まさかの武器”

posted2025/06/20 11:02

 
“伝説のルーキー”近藤真一の快投で「もうクビだと思ったんです」中日レジェンド・山本昌が「島流しと一緒」失意の米国で手にした“まさかの武器”<Number Web> photograph by BUNGEISHUNJU

年下のルーキーの快投に衝撃を受けたプロ入り4年目の山本昌。一方でその後、失意のままに留学した米国で「まさかの武器」を手に入れることに

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酒井俊作

酒井俊作Shunsaku Sakai

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BUNGEISHUNJU

 日本プロ野球の長い歴史の中で、ただ一人だけ50歳まで現役を続けた男がいる。1983年のドラフト会議で指名され、中日一筋のプロ生活を全うした山本昌だ。今年、ついに還暦を迎えるレジェンドにとって、30余年のプロ野球人生は果たしてどんなものだったのか。本人に話を聞いた。《NumberWebインタビュー全5回の3回目/つづきを読む》

 シェイクスピアの戯曲『マクベス』で、翻訳家の松岡和子が、朝が来なければ夜は永遠に続く、と訳出したように、中日の山本昌にとって1987年はいつ果てるとも知れない闇に覆われていた。

「もうクビだと思ったんです。僕は二軍で箸にも棒にも掛からないようなサウスポーでした。同じ先発を目指すピッチャーとして、もう終わったなと」

3歳年下「スーパールーキー」の快投

 8月9日の夜はナゴヤ球場の客席にいた。

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 二軍の寮生は一軍の公式戦を5回か午後8時まで球場で見学する決まりがあり、この日は巨人戦を見守っていた。マウンドでは3学年下の近藤真一(現・真市)が高卒1年目でのデビュー戦に臨んでいた。まだ18歳なのにカーブを武器に猛者たちを手玉にとり、5回までヒットを1本も許していなかった。

 ナゴヤ球場を離れた山本昌は仲間たちと名古屋市内の寮に戻り、テレビ中継でつづきを見た。9回。近藤がプロ野球史上最年少で、史上初となる公式戦初登板でのノーヒットノーランを成し遂げた瞬間、ブラウン管の前にいた同僚たちはどよめいた。

 だが、同じ左投手だった山本昌は仲間の快挙とはいえ、手放しで喜べなかった。

「彼のカーブ、すごかったんです。鋭く曲がって素晴らしかった。自分とは比べ物になりませんでした。しかも、近藤真一は2試合後の登板でも1安打完封して、ああ、レベルがちがうところに行っちゃったな、これでもう左投手は他にはいらないなと」

 山本昌が悲観するのも無理はない。

 84年にドラフト5位で入団して2年間、一軍に昇格できず、3年目の86年に一軍デビューしたが、1試合に投げただけで防御率は27.00だった。この87年も3試合登板にとどまり、防御率はやはり16.20の惨状。まだ二軍の先発ローテーションにも入っていなかった。先を越された山本昌があせるのも無理はなかった。

【次ページ】 失意のアメリカ留学で…恩人との出会い

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