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「みなさんがうるさいので」大谷翔平の皮肉…なぜアスリートの結婚会見は“消えた”? 米国スターが怒った日本のマスコミ「記者会見イヤだった」
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph byAFLO
posted2024/03/09 11:01
結婚を公表したドジャース・大谷翔平(29歳)
これらメディアにとってスターの結婚は格好の話題であり、相手が大物であるほどどこの媒体もスクープを狙って取材合戦にしのぎを削った。そこでまず対象となったのは芸能人でもスポーツ選手でもなく、皇太子(現・上皇)であった。
1950年代後半、マスコミは皇太子妃候補と推測される女性たちにこぞって取材を行い、そのあまりの過熱ぶりについには宮内庁が正式発表まで予測報道を自粛するよう要望するほどであった。それでも、ある芸能週刊誌は取材を進め、1958年11月27日の宮内庁の正式発表に先んじて、皇太子妃が正田美智子さん(現・上皇后)に内定したことをスクープしている。結婚式は翌年4月10日に行われ、これを契機としてテレビの普及が急速に進んだことはよく知られる。
ちなみに日本の芸能界で初めて記者会見を行ったのは、俳優の石原裕次郎といわれる。石原は1960年2月、交際中だった女優の北原三枝(のちのまき子夫人)とアメリカへの婚前旅行から帰国後、羽田空港で会見した。二人はそこで婚約を発表する予定であったが、石原が記者のぞんざいな質問に機嫌を損ね、この場ではとりやめとなった。それでも同年12月には無事結婚式と披露宴が行われる。このときの会見も芸能界で2度目とされる。
ただし、これはあくまで「日本の芸能界」に限ってのこと。来日した海外スターに関してはさらにさかのぼって先例がある。それはいまからちょうど70年前の1954年、アメリカから元メジャーリーガーのジョー・ディマジオとハリウッド女優のマリリン・モンローが新婚旅行として来日したときの会見だ。
「記者会見なんてしたくなかった」スターの不満
ディマジオは、ニューヨーク・ヤンキースの外野手として、1941年にMLB記録となる56試合連続安打を達成するなど大活躍した米球界のスーパースターであり、1951年に現役を引退した。来日は現役時代を含めてこれが3度目であった。しかし、このときの来日では、このころ一躍スターへとのし上がった新婦のモンローのほうにもっぱら人気が集まる。来日するや、彼女を一目見ようと群衆が二人の宿舎である東京・帝国ホテルに押し寄せ、警察も出動する騒ぎとなる。
共同記者会見は当初、来日したその日(2月1日)、帝国ホテルで予定されていたが、羽田到着が遅れたうえに長旅によるモンローの疲労から当日は報道陣への顔見せ程度にとどまり、正式な会見は翌日に延期された。
もっとも、ディマジオはこの会見に不満であった。