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「みなさんがうるさいので」大谷翔平の皮肉…なぜアスリートの結婚会見は“消えた”? 米国スターが怒った日本のマスコミ「記者会見イヤだった」
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph byAFLO
posted2024/03/09 11:01
結婚を公表したドジャース・大谷翔平(29歳)
会見を始めるに際しては、《私たちは静かなハネムーンをと思って、日本へ来たんだ。それなのにこんな騒ぎになって……。私たちは記者会見なんて求めてなかったのに。誰がこれを決めたのか分からないが……。マア仕方がない。始めよう》と記者団に一言釘を刺している(佐山和夫『ディマジオとモンロー 運命を決めた日本での二十四日間』河出書房新社、1995年)。
ディマジオとしては、モンローばかりが注目されることにも我慢がならなかった。当初は、彼の希望により、報道陣に対し会見場での写真撮影禁止が通達されるも、彼女をどうしても撮りたいカメラマンからの一斉抗議で、会見前に10分だけとの条件で認められた。撮影時間のあいだ、会場の隅で待っていなければならなかったディマジオの心境はいかばかりであっただろうか。肝心の会見でもモンローに質問が集中し、彼はとうとうたまりかねて途中で退席してしまう。
日本での待遇の差が直接の原因ではないだろうが、結局、二人の結婚は長続きせず、帰国後の10月にはモンローが離婚訴訟を起こし、翌1955年6月に正式に離婚が成立した。
「日本のディマジオとモンロー」第1号は?
球史に残る大選手のプライドを著しく傷つけてしまったものの、日本のメディアではこの来日以降、スポーツ界と芸能界のスターが結婚するたび、ディマジオとモンローが引き合いに出された。その端緒となったのが、1962年に婚約を発表した阪神タイガースの主砲・藤本勝巳と歌手の島倉千代子のカップルだ。
藤本は、1959年の昭和天皇臨席の天覧試合で一時逆転のホームランを放つ活躍を見せるなど強打者として活躍、翌年には本塁打王・打点王の二冠に輝いている。一方の島倉は「この世の花」「からたち日記」などあいついでヒット曲を出し、このころ美空ひばりなどと並ぶ人気歌手であった。
1962年は阪神がリーグ優勝した年であった。二人は、藤本が東映フライヤーズ(現・日本ハム)との日本シリーズを終えた4日後、1962年10月25日に婚約会見を行った。東京・新橋の第一ホテルでの会見には媒酌人の阪神・藤本定義監督夫妻が付き添い、100人を越える記者団が集まった。藤本は彼女との馴れ初めについて「私は6年前からの島倉さんのファンでテレビを見て2回ほど電話をかけたが居留守を使われた。初めて会ったのは電話から2カ月目。プロポーズは今年の6月」と語った。新居は甲子園球場近くに建てる予定で、島倉は東京の実家と往き来しながら仕事を続けると答えている(『毎日新聞』1962年10月26日付朝刊)。
結婚式は1年後の同日に予定されたものの、直前に島倉の父が亡くなり、せめて四十九日が終わってからということで2カ月延期され、12月5日、大阪の新大阪ホテルで挙げた。