- #1
- #2
甲子園の風BACK NUMBER
球児の“丸刈り集団”を見た外国人「日本のヤクザでは…」同じ髪型=チームがまとまる“幻想”は消えるか? 「丸刈り訴訟」から慶応の優勝まで
text by
岡野誠Makoto Okano
photograph byGetty Images
posted2023/08/29 11:03
慶応が覆した“常識”とは何だったのか。高校野球界でいわれてきた“高校生らしさ”のナゾを考察する(写真はイメージ)
坊主よりも「同調圧力」に忌避?
今年、実態調査の「部員の頭髪の扱いは野球部ではどのように取り決めていますか?」という質問に対し、「丸刈り」は26.4%と大幅に下がった。坊主が嫌で野球を避ける生徒が多く、部員が減少しているため、長髪を容認した部が増えたという。ただ、「高校野球人口の減少」と「坊主」はあくまで表面的な関係だと思う。
子供たちは高校野球に潜む「みんな同じにしなければならない」という同調圧力を敏感に察知していたのではないか。抑圧された環境では楽しんだり、自分で考えたりするよりも他人の目を気にしたプレッシャーが先に来る。球児の一律丸刈りに反対してきた作家の安部譲二(好物は肉の脂身)はこう語っていた。
〈みんな右にならえ、という風潮はヤバイよ。何の疑問ももたずに丸坊主になる少年たちが、みんな、あの根性主義の星野仙一みたいになるかと思うと、あー、いやだ〉(90年8月10日号/週刊朝日)
高校野球は本当に変わるか?
自らの意思で坊主にする分には何の問題もない。今後、「本当は坊主にしたいけど周りが髪を伸ばしているから」という理由で長髪が増えるなら、根本的には何も変わらない。『日本人の行動様式 他律と集団の論理』という昭和のベストセラーにはこんな言葉がある。
〈集団論理、類型化の力学がつねに作用しているムラ的共同社会のなかには、創造性を生み出す契機が存在する可能性はほとんどない〉(73年5月発行/荒木博之著/講談社現代新書)
“みんな同じでなければならない”という強要は創造性を奪う。その点、他律的ではなく、自律的な慶応による「令和5年の優勝」は、昭和の高校野球からの脱却になりうる。
自分の経験則や価値観で子供を縛るのではなく、その慣習に意味はあるのか。指導者は常に問い続ける必要がある。学生も、周囲と異なる仲間を認め、他人に干渉しない姿勢が求められる。両者が組み合わさった時、真の意味で“高校野球の常識”は変わっていく――。
※1 1989年8月17日/朝日新聞 1993年8月7日/日刊スポーツ 一連の京都西高の非坊主への過程