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プロ野球PRESSBACK NUMBER
あの張本勲も野村克也も絶賛した“プロ野球史上最速ピッチャー”なぜ29歳で引退したのか? 高校中退してプロ入り→1年目で「20勝」“怪童”尾崎行雄の伝説
text by

太田俊明Toshiaki Ota
photograph byNanae Suzuki
posted2025/04/03 11:02

あの張本勲も野村克也も絶賛した「史上最強投手」とは何者か
リリーフに回ったり、球団から打撃投手を打診されたりするなどして、結局1973年に29歳で引退。プロ通算12年では、107勝83敗。夏の甲子園優勝投手として、戦後初の100勝投手になったが、“怪童”と呼ばれた高校時代からすると、やや物足りない成績に終わった。
その快速球でプロの猛者を驚かせた17歳の尾崎が、もし浪商の3年生として甲子園に出ていたらいったいどんな投球を見せたのか。それが見られなかったのが惜しい気がする。
尾崎は「史上No.1投手」なのか?
さて、当企画の現チャンピオン江夏豊とのベストシーズン対決である。尾崎のベストシーズンは、プロ入り4年目の1965年になる。4歳下の江夏のベストシーズンは1968年なので、ほぼ同時期の2人の対決になる。(赤字はリーグ最高、太字は生涯自己最高)
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【1968年の江夏】登板49、完投26、完封8、勝敗25-12、勝率.676、投球回329.0、被安打200、奪三振401、与四球97、防御率2.13、WHIP0.90
【1965年の尾崎】登板61、完投26、完封6、勝敗27-12、勝率.692、投球回378.0、被安打261、奪三振259、与四球63、防御率1.88、WHIP0.86
拮抗した好勝負になった。当企画の趣旨は、「もし同一シーズンに2人がこの成績だった場合、どちらが沢村賞を獲るか」なので、改めて沢村賞の選考基準を示す。
登板25試合以上、完投10試合以上、勝利数15勝以上、勝率6割以上、投球回200回以上、奪三振150個以上、防御率2.50以下。
二人ともすべての項目で基準をはるかに超えているのはさすがである。選考7項目のうち、登板数は尾崎、完投数は同点。さらに勝利数、勝率、投球回、防御率が尾崎で、奪三振は江夏。尾崎の5勝1敗1分けとなる。
当企画で重視している“打者圧倒度”を比較してみよう。1試合当たりの奪三振数は、シーズン401奪三振という世界記録(1900年以降の近代野球において)を持つ江夏の10.97に対して、尾崎6.17と、これはさすがに江夏が圧倒。
1試合当たりの被安打数は、江夏の5.47に対して、尾崎は6.21と、こちらも江夏リード。防御率は、江夏2.13に対して尾崎1.88と尾崎リード。WHIPも、江夏の0.90に対して尾崎0.86と、わずかではあるが尾崎が勝利。これは、1試合当たりの四球数が、江夏の2.65に対して尾崎は1.50と、尾崎が大きく上回ったのが理由である。
こうしてみると、沢村賞選考7項目では尾崎の5勝1敗1分け。打者圧倒度4項目では、2勝2敗の5分。より多く三振を取り、安打を許さなかった江夏の方が“剛腕”のイメージが強いが、ほぼ同時代でありながら、江夏よりはるかに多い登板数、投球回をこなしながらこの成績をあげた尾崎に軍配をあげたい。新チャンピオンの誕生である。
ちなみに、1965年に沢村賞を受賞したのは、阪神の村山実だった。もしパ・リーグの投手も沢村賞の選考対象となっていれば、ほとんどの項目で村山を上回っている尾崎が受賞していただろう。
〈尾崎行雄が「甲子園優勝→高校中退するまで…」編へつづく/1回目〉
