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33歳で戦力外通告…お先真っ暗だった“巨人右腕”はなぜ「年商160億円の社長」に転身できたのか? 第二の人生で「勝ち組」になった話

posted2023/12/30 11:02

 
33歳で戦力外通告…お先真っ暗だった“巨人右腕”はなぜ「年商160億円の社長」に転身できたのか? 第二の人生で「勝ち組」になった話<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

“昭和最後のドラフト”で巨人に2位指名を受けた松谷竜二郎

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松永多佳倫

松永多佳倫Takarin Matsunaga

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Sankei Shimbun

今年も多くのプロ野球選手が「戦力外通告」を受け、ユニフォームを脱ぐ決断を下した――。そんな元プロ野球選手の「その後」を描いた書籍『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(著:松永多佳倫/KADOKAWA)から、巨人・近鉄でプレーした松谷竜二郎氏のエピソードを抜粋して紹介する。野球一筋だった“33歳のオールドルーキー“は、未経験の建築業界でどうやって社長まで上り詰めたのか【全2回の1回目/後編へ続く】。

松谷竜二郎(まつたに・りゅうじろう)

1964年7月10日生まれ。大阪府出身。大阪市立高校(現大阪府立いちりつ高校)卒業後、大阪ガス野球部に入部し、3年連続で都市対抗に出場するなど社会人野球で活躍。88年巨人にドラフト2位で入団。91年に21試合に登板し、完投勝利を含む2勝を記録。97年に引退後は建築業界に転職。現在はスチールエンジ株式会社の代表取締役。

※以下、書籍の一部を抜粋。

驚異的な数字を残す巨人投手陣の中で…

 プロ5年目の93年に肩を痛め、その春先から出遅れるようになった。

 もともと肘が悪いうえに肩まで痛め、調整が思うようにできず、95年3月に近鉄へ移籍。新天地に移っても肩の痛みが引かず、春先は2カ月遅れて、次の年は3カ月遅れていき、最終年は一試合も投げられずに97年オフに戦力外通告を受ける。

 大阪ガスから即戦力ピッチャーとしてルーキーイヤーはキャンプから結果を残し、大いに期待されたはずが、最後は尻つぼみになった形でひっそりと野球を辞めることとなる。

 在籍年数9年間で、プロ通算59試合、4勝5敗1セーブ、防御率5.06の成績で終わった。

 近鉄から戦力外通告となった松谷は、横浜ベイスターズのテストを受けることになった。

 イースタン史上初の2度のノーヒットノーランの対戦相手が当時の大洋だったこともあって、関係者を通じてテストを受ける算段となる。

 しかし、いつも強気の松谷の顔に陰りが漂った。「いけるやろかぁ……」肩の症状がまったくというほど治ってなかったからだ。近鉄最後の年に、試しにスピードガンで測ってもらうとストレートが120キロ台しか出なかった。まあ、変化球があるからどうにかなるかと思い、2日間のテストのうち初日は普通に投げられた。しかし2日目は球場には行ったものの肩が上がらず「投げられません」と関係者に言うしかなく、無残にもテストは終わった。

【次ページ】 「お仕事を紹介していただけないでしょうか」

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