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大阪桐蔭→巨人ドラ1で一軍登板なし「156km左腕」は秋田で現金輸送の警備員になっていた…辻内崇伸が語る「普通の人になれたことが嬉しい」
text by
佐藤春佳Haruka Sato
photograph byJIJI PRESS
posted2024/05/13 11:00
2005年の高校生ドラフト1位で巨人に入団した辻内崇伸さん
2回戦では19三振を奪い、大阪桐蔭高はベスト4進出。辻内さんは登板した5試合で当時歴代2位の記録となる計65三振を奪い一躍、全国から注目を集めた。2005年秋、高校生ドラフトで、オリックスと競合の末に巨人が1位指名権を獲得。球団では松井秀喜以来となる、高卒での契約金1億円(推定)という鳴り物入りで入団が決まったのだ。そこから、本人の予想も超えた“大狂騒曲”が始まる。
「ドラ1ということで何をするにも記事になってしまうという、自由がなかったというところはすごく大変でした。でも、報道に紐づいているのはファンの方たちなので、そうやって取り上げてもらえることは嬉しかった。苦しかった部分と、嬉しさと半分ずつくらいでした」
「巨人のドラ1」の重圧
当時の「巨人のドラ1」は現在より俄然、注目度が高かった。甲子園スターの入団ということもあり、辻内さんの一挙手一投足は大きな記事になった。当時、スポーツ紙の巨人担当記者だった筆者は、おっとりとして優しい印象の18歳が大きな波に呑み込まれていくことに、少しの不安を感じていたことを覚えている。
「チームには偉大な大先輩がたくさんいる中で、ドラ1で取り上げてもらって、色々な葛藤もありましたね。嬉しさと、戸惑いと……」
2006年秋、辻内さんは「ハワイ・ウインター・ベースボール」に派遣される。アメリカや中南米の投手からヒントを掴み、現地で投球フォームの改造に着手。入団直後から痛みを抱えていた左肩や左肘に負担の少ないフォームを身につけ、実戦でも好成績を残したことから大きな手応えを得ていた。
「今思い返しても、あの時は一番調子が良かったと思います。(コーチとして派遣されていた)斎藤雅樹さんにも凄く褒められたんです。それが嬉しかったし、自分でも、これならやれるんじゃないか、と自信が湧いていました」
運命の分かれ道だった「違和感」
翌07年、プロ2年目のキャンプで初の一軍スタートを掴む。飛躍への大きなチャンス。しかし、そこに落とし穴が待っていた。実はキャンプイン直前、左肘に痛みを覚えていたのだ。
「ウインター・リーグが終わってから少しだけ違和感があって、治さないといけないと思っていたんですけど……。一軍スタートということでそれを言い出すことができなかった。若手はキャンプのスタートから状態を上げてアピールしなければいけないし、若手がノロノロしていたら何をしているんだ、って言われてしまう。そういう時代でした」