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大阪桐蔭→巨人ドラ1で一軍登板なし「156km左腕」は秋田で現金輸送の警備員になっていた…辻内崇伸が語る「普通の人になれたことが嬉しい」 

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佐藤春佳

佐藤春佳Haruka Sato

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posted2024/05/13 11:00

大阪桐蔭→巨人ドラ1で一軍登板なし「156km左腕」は秋田で現金輸送の警備員になっていた…辻内崇伸が語る「普通の人になれたことが嬉しい」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

2005年の高校生ドラフト1位で巨人に入団した辻内崇伸さん

怪我との戦いは高校時代から

 辻内さんの野球人生は、怪我と隣り合わせだった。左肩痛に悩まされ、左肘にはトミー・ジョン手術のメスを入れた。プロ8年間で一軍登板はなし。リハビリに明け暮れ、わずかに見えた光を追いかけては激痛に何度も膝を折る毎日だった。振り返ると、初めて左肘に痛みを感じたのは大阪桐蔭高時代に遡るという。

「いつから、というのが分からないくらい、肘の痛みとはずっと付き合ってきました。3年生の時は大会で連投することもあったので、試合で投げて、戻ってきて同部屋の同級生にマッサージをしてもらって、次の日に痛み止めの注射を打ってまた投げる、という感じでしたね」

 今でこそ常勝軍団のイメージが強い大阪桐蔭高だが、当時は強豪のPL学園と履正社に挑む立場だった。エースは辻内、主砲に平田良介(元中日)、2学年下には“怪物”中田翔(中日)が入部してきた。甲子園出場へ、またとないチャンスが訪れていた。

運命を変えた「1球」

「監督さんにも許可を得ながら個人病院に行って注射を打って……それが普通のことだったのかは自分には分からないです。でも最後の年だし絶対勝たないといけない、という思いはありました。当時の大阪桐蔭はまだ名前も売れていなくて、チャレンジャーという感じでしたしね」

 大阪府大会を勝ち抜き手にした甲子園切符。3年夏の夢舞台で、辻内さんの運命を変える出来事が起きる。春日部共栄高との初戦。1回、先頭打者に投じた5球目に、3万4000人が思わず息を呑んだ。場内の電光掲示板の球速は「152km」。前年春のセンバツから表示されるようになっていた球速で150kmを超えたのは初めてのことだった。

 ネット裏に集まっていたプロ野球のスカウト陣が手元で計測した球速は微妙に違っていた。その中で、最も速かったオリックスのスカウトが計測した「156km」が報道の見出しになった。その数字は当時、プロ野球も含めた国内の左腕最速記録でもあった。「MAX156km左腕」。それは、辻内さんの生涯にわたる代名詞となった。

代名詞となった「MAX156km」

「軽く……本当に軽く投げた1球でした。そもそも試合に凄く緊張していて、地に足がついていなかった。あんなお客さんの前で投げたこともなかったし、終始フワフワしていました。投げていて楽しかったし、みんなに見てもらって試合ができる喜びを感じた。今でも凄い経験になったなと思っています」

【次ページ】 隠し通した“違和感”

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