Number ExBACK NUMBER
「テレビカメラを客にぶち当てて…」千代の富士、結婚パーティーで親方が“マスコミ不信”に…相撲協会が結婚披露宴「テレビ中継NG」を決めた日
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph byKYODO
posted2024/03/09 11:03
1982年9月30日、横綱・千代の富士の結婚披露宴で(東京・千代田区のホテルニューオータニ)
そのなかで馬場は、もしマスコミに自分たちの関係がわかって、彼女が本来の姓で記事に出てしまったら、先方の家に迷惑がかかると慮った。そこで彼女には、知人の女性と養子縁組して改姓することを勧める。養子縁組はこの年1月に成立した。
挙式後、日本では9月22日に結婚を発表して、10月2日にも披露宴を開催する予定であった。だが、結局、ここにいたっても夫人の実家から賛同を得られず、計画は幻に終わる。婚姻届も出されないままであった。
翌1972年、ある女性週刊誌が馬場が前年に結婚式を挙げていたとすっぱ抜き、夫人の素性があきらかにされる。彼女の実家には取材陣が押し寄せ、母親はノイローゼに陥ってしまった。彼女がわざわざ養子縁組したことも意味をなさなかったのである。馬場はこれを受け、マスコミに対し「先方のお母さんを悲しませるようなことは、お願いだからやめてほしい」と懇願する。
二人が晴れて正式に結婚するのは、それから10年後のことだった。この頃、夫人の父親がこのままだと馬場に迷惑がかかると告げ、また母親も結婚を黙認するようになっていた。実家の姿勢が軟化したことにより、1982年6月17日に婚姻届を提出、これを芸能週刊誌が報じたのを受けて、7月7日には馬場が単独で記者会見にのぞんだ。
元子夫人が初めて公の場に現れたのは、その翌年の1月23日、馬場の出版記念パーティーが東京ヒルトンホテルで行われるのと兼ねて、周囲の人たちの好意により結婚披露宴が行われたときであった。馬場の45歳の誕生日にセッティングされた「ジャイアント馬場くんをますますテレさす会」と題するその会には1500人が出席し、二人を祝福した。馬場はこれまで自身を支えてくれた夫人への感謝の思いを込め、壇上で童謡「蛙の笛」を歌ったという(市瀬英俊『誰も知らなかったジャイアント馬場』朝日新聞出版、2021年)。
<続く>