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「電話でプロポーズした」巨人・原辰徳、異例の婚約会見で妻は泣いた「いろんな障害がありました」…アスリートの結婚式がド派手だった時代
posted2024/03/09 11:04
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph by
JIJI PRESS
「一番はみなさんがうるさいので……」大谷翔平は結婚を公表した理由を問われ、こう答えた。“アスリートの結婚”をマスコミはどう取り上げてきたのか? なぜアスリートは結婚式を公開しなくなったのか? その歴史を追う。【全5回の第4回/第1回~第5回、公開中】
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「高さ6.5mのウエディングケーキ」
1980年代に入ると、アマチュアスポーツの選手の結婚もメディアをにぎわせるようになる。国内外の大会で優勝を続けていたマラソンの瀬古利彦は1985年6月14日、元幼稚園教諭の女性と東京・赤坂プリンスホテルで挙式・披露宴を行った。ウエディングケーキの高さが6.5メートルと、10日後の松田聖子・神田正輝の披露宴(「聖輝の結婚」と呼ばれた)で準備されていたものより1メートル高いことが注目されたりした。
瀬古は結婚式当日もいつもどおり早朝練習を欠かさず、夕方の練習は昼に繰り上げて式にのぞんでいる。そのストイックさから「走る苦行僧」などと呼ばれていただけに、祝宴での笑顔も当時としては珍しがられた。もっとも、瀬古が根はひょうきんな性格であることは、翌1986年5月5日に同じホテルで行われた、柔道の山下泰裕(前年に現役引退して当時は東海大学講師、現・JOC会長)の結婚披露宴であきらかになる。
出会いは“銀座の高級品店”
瀬古と山下は競技は違えども、トップアスリートとして互いに存在を意識し合うライバルであり、1980年のモスクワ五輪ではともに金メダルを期待されながら日本の大会不参加で挫折を味わった盟友でもあった。とはいえ、直近の1984年のロサンゼルス五輪で、山下は無差別級で宿願の金メダルを獲得したのに対し、瀬古は14位に終わる。瀬古は山下の披露宴でこのことを自虐混じりにスピーチしてみせ、爆笑を誘った。当時の写真週刊誌の記事から引用すると……。