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立浪和義がいたPL学園「野球部は解散だ」悲劇から最強チームに…桑田・清原3年時に入学、関係者明かす“タツの素顔”「批判される現状ですが…」
text by
柳川悠二Yuji Yanagawa
photograph byAFLO
posted2024/01/11 11:01
PL学園唯一の春夏連覇に導いた立浪和義
《当時、PLには選ばれた選手しか入れなかった。そのPLに声をかけてもらったのだから、行くしかないな、と。中学時代の監督には、頭を下げて謝罪しました。入学したPLで、僕らは桑田さん、清原さんらのチームと比較されていましたから、負けられないというプレッシャーは常にありました》
3年時に「PL唯一の春夏連覇」
KKコンビが最後の夏に1年時に続く日本一となり、両者はプロ野球の世界へ飛び込んでいく。2歳下にあたる立浪ら33期生にとって悲劇が起きたのは、彼らが2年生だった1986年の6月だ。グラウンド脇にある池で同学年の部員が水死する事故が起きる。井元はその一報を東京で聞き、すぐに大阪に戻った。
「野球を愛した2代教祖からは、『世の中の人に迷惑をかけたら野球部は解散だ』と言われていた。親御さんから預かっている部員が亡くなるということは、当然、チームを預かる我々の責任であり、解散の危機であり、現代であれば大きな社会問題となったでしょう。ただ、ご遺族に『これからの野球部の活動に影響がないように』というご理解とご配慮があった。そこで池の脇に碑を建て、活動を再開したのです」
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現在の感覚からすれば、学校側の対応に問題があったことは否めない。だが井元は「仲間を失ったことで立浪の代は一致団結した」と当時を振り返る。立浪と同期生の野村も同じ意見だ。
「事故が起こった当初、高校2年生ですから、正直言うと、人が亡くなるということの実感がなかった。仲間が亡くなったということを受け入れるとか、受け入れないではなく、信じられなかった。しかし、僕らが最上級生となってからは、試合中に苦しくなると亡くなった仲間のことを考えていたし、同期の背を押してくれた部分はあると思います」
厳しい上下関係で知られるPL学園で、立浪は何を学んだのか。第3回では同校の“先輩”に当たる人物の証言や、立浪が語っていた「時代の変化」への本音を紹介する。
〈つづく〉