プロ野球PRESSBACK NUMBER
「乱闘怖くなかった。張本勲さんがいたから」大物揃いのロッテ入団…伝説的キャッチャーが明かす“サイン全球無視される”事件「え…?なんで?」
text by
岡野誠Makoto Okano
photograph byJIJI PRESS
posted2023/08/04 11:03
元ロッテの伝説的キャッチャー・袴田英利が語るレジェンドたちの実像とは
「サイン全球首振り」の事件
79年5月5日、並み居る異端児に恐縮していた袴田の野球観が激変する。開業したばかりの西武球場で8回からマスクを被った。11対0と勝敗がほぼ決まった状況で、スタンドの雰囲気は弛緩していた。だが、プロ初完封を懸けた27歳の仁科時成は殺気立っていた。カーブ、シュート、スライダー、ストレート……袴田がどんなサインを出しても、仁科は頷かなかった。
「全球、首を振られました。後にも先にもこの時だけですよ。1つのサインごとに『え…?』『なんで?』と動揺が止まらなくなった。最後はどうサインが決まったのか覚えていません。そのくらいショックが大きかった」
9番・伊原春樹のレフト前ヒットに始まって4番・田淵幸一、5番・長谷川一夫にタイムリーを浴びて2失点。仁科のプロ初完封は潰えた。ベンチに帰っても会話はない。9回も、何度サインを出しても拒絶された。
「悔しかったですよ。全球ですから。理由は聞いてないです。ただ、あの日『絶対に首を振らせないキャッチャーになってやろう』と思いました。それから僕が仁科さんはじめ、投手陣に今まで以上に近づいて行って、より多くのコミュニケーションを取るようにしました」
引退後も“全球首振り”の理由は決して聞かなかった。素直に問えば、仁科は答えてくれたかもしれない。しかし、何が間違っていたのか熟考に熟考を重ね、自分で考え抜く。遠回りに思える作業が袴田を正捕手へと成長させていった。仁科は84年5月29日の近鉄戦(日生球場)で2度目の“9回二死までノーヒット・ノーラン”をした直後、こう話している。
〈キャッチャーとの呼吸もよくあっていたしね。このペースで投げていけばできるんじゃないかと思っていた。〉(週刊ベースボール/84年7月16日号)
「最後、平野(光泰)さんに打たれて達成できなかった。悔しかったですね。仁科さんは食事にもよく連れて行ってくれましたし、良くしてもらいました」
大事なのは自分で考える力であり、そこからキャッチャーに必要な“察知力”が生まれる。袴田は屈辱を胸に、正捕手への階段を駆け上がった。下積みが長かった分、地力がついた。84年には捕手で12球団最多の127試合に出場。85年には監督推薦で2度目のオールスターにも選出された。仁科がサインに首を振ることもなくなった。
だが、ロッテには仁科以上の異端児が存在した。ノーサインで高速フォークを投げ込む村田兆治、「狙ってくるよ」と言い残して本当にスタンドに放り込む落合博満である。
〈つづく〉