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落合博満“まるでマンガ”の天才エピソード「ベンチで宣言した通りにホームラン打つ」元同僚が語る落合と村田兆治“なぜ2人は理解し合えたか”

posted2023/08/04 11:04

 
落合博満“まるでマンガ”の天才エピソード「ベンチで宣言した通りにホームラン打つ」元同僚が語る落合と村田兆治“なぜ2人は理解し合えたか”<Number Web> photograph by KYODO

ロッテ時代に三冠王を3度獲得した落合博満

text by

岡野誠

岡野誠Makoto Okano

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KYODO

 昭和のロッテで、村田兆治と落合博満の異端児2人は根底で通じ合っていた。決して妥協しないエースと天才的4番バッターの姿を間近で見た袴田英利が、Number Webの取材に応じた。(全5回の2回目/#1#3へ)※敬称略。名前や肩書きなどは当時

◆◆◆

「天才」落合博満の登場

 袴田がプロ2年目の1979年、25歳の落合博満が東芝府中からドラフト3位で入団してきた。2人は東京・高円寺の寮で寝食を共にした。

「寮住まいのみんなでボウリングに行った時、めちゃくちゃ上手かったです。プロになれると思った。あとで『プロボウラーの試験を受けようとしていた』と新聞や雑誌で知りました。僕らが聞けば答えたのかもしれませんけど、自分からは言わないんですよ」

あの「ノーサイン」が生まれるまで

 この頃、袴田は新たな難題に直面していた。70年代から80年代にかけて、プロ野球界ではサイン盗みが横行していた。そのため、バッテリーは乱数表を使って球種を決めるほど神経を使った。だが、高速テンポで投げるエースの村田兆治は複雑なサイン交換を好まなかった。

「いつだったか、公式戦の途中に一度ノーサインにしたんです。そしたら、テンポが良くて、相手がペースに付いていけなかった。それから毎試合続けました。ただ、村田さんは『自分の状態があまり良くない時にはサインを出してくれ』と。逆に言えば、調子が上がってくると元に戻りましたね。いつの間にかノーサインになっていました」

 袴田は村田に常識を要求しなかった。勝利を追求すると、ノーサインが最も合理的だったからだ。村田は我を通す分、誰よりも自分に厳しく、己を追い込んでいた。

「練習の鬼でしたね。本当によく走っていました。紅白戦の最中に外野でポール間走をしていた時もあった。食生活にも気を遣っていて、僕らがカップヌードルをすすっていると『そんなもん食うな』と怒られました。村田さんの家にお邪魔すると、小鉢に十数品もの料理が出てくるんですよ。普段の生活から全て『先発完投』という目標に繋がっていました」

【次ページ】 村田兆治の壮絶なリハビリ

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