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村田兆治が逆ギレ…ノーサインなのに「何投げさせてるんだ!」理不尽を受け入れたロッテ名捕手が語る“落合博満が電撃トレード後”のチーム事情
posted2023/08/04 11:05
text by
岡野誠Makoto Okano
photograph by
KYODO
異端児たちの無謀な要求は文句ひとつ言わずに呑む。だが、上から押さえ付けるだけの理不尽な命令には断固として抵抗する。そんな生き方を貫いた1980年代のロッテの正捕手・袴田英利がNumber Webの取材に答えた。(全5回の3回目/#1、#2へ)※敬称略。名前や肩書きなどは当時、年俸は推定
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袴田英利の野球人生は、板挟みになる難しい役回りばかり巡ってくる。
昭和のプロ野球界は、使用者と労働者の間に露骨な主従関係があった。袴田が選手会長に就任した1985年、日本プロ野球選手会が労働組合として認定された。「トレードの事前協議の義務化」「フリーエージェント制度の導入」などを訴える組織をロッテは快く思わなかった。
「フロントから『選手会を抜けろ』とよく要求されました。『選手に説明できるだけの保障をしてくれるならいいですよ』と返答したら、あまり言われなくなりましたけどね」
年俸上がらなかった「あの時代」
才能の突出したグラウンドの異端児は無理難題を求めたが、勝つためには常識を超える必要があった。だから、袴田は必死についていった。しかし、会社の論理で丸め込もうとする球団の考え方には納得できなかった。
「ある年の契約更改で、希望額とあまりに開きがあったので『今日は帰ります』と席を立ったんですよ。そしたら次の交渉時、当時の代表が『おまえは俺の顔に泥を塗った』と。法政のOBでした。大学の上下関係を持ち込まれると、何も言えなくなる。仕方なくサインしました」
袴田は84年から5年連続で110試合以上に出場したものの、最高年俸は2450万円(89年)に留まった。2年連続2位のチームで129試合に出場し、リーグ3位タイの30犠打を決めた85年の契約更改でもロッテは渋かった。4度の交渉を重ね、越年の末にようやく450万円アップの1700万円を勝ち取ったほどだった。