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強い明治大野球部で思い出す“伝説のカリスマ監督”「なんとかせい!」「1000球投げ込みは命令だ」「早稲田に負けると夜中2時から練習」
text by
生島淳Jun Ikushima
photograph bySankei Shimbun
posted2022/06/08 11:04
東京六大学野球で6季ぶり41回目の優勝を飾った明治大(写真は5月23日)。胴上げされる同大・村松開人主将(中央)
「早稲田に負けるじゃないですか。そうすると、夜中の2時くらいに御大の泣き声が聞こえてくるんです。そうすると、上級生がガバッと起きて、そこから練習ですよ。そのうち日の出の時間を迎えて、御大が『ご来光、ご来光』と東の空を拝むんです。それで朝まで練習してその日は勝っちゃったりするんですから(笑)」
「練習は、1年生がセンターポールに『M』の旗を揚げてから始まります。それがどうしたことか、1年生が旗を反対につけちゃった。センターポールに『W』が翻ってる(笑)。部内では、この事件のことを『Wの悲劇』と呼んでいます」
などなどエピソードの宝庫で、抱腹絶倒、明治野球の奥深さを感じさせる番組になっていた。
つい先ごろまで「ラジオクラウド」で聴けたのだが、3月以前のものは権利関係のせいか、聴けなくなってしまった。
この回は日本の野球史において重要なエピソードを紹介するものであり、ぜひとも野球殿堂博物館などで聴けるようにしてもらえないだろうか。
NHKで全国放送…“六大学黄金時代”
そして、さらに明治野球の神髄に触れる意味で重要なのは、1975年の主将を務めた丸山清光氏の著書、『なんとかせい! 島岡御大の置き手紙』(文藝春秋企画出版部)である。
私は、丸山氏のピッチングを記憶している。
なぜなら、私は小学校1年生の時から六大学野球に耽溺し始めたからだ。11歳年上の兄が1974年に法政大学に入学したが、この年は六大学野球にとって重要な年だった。
江川卓が慶応を受験するも合格ならず、法政に進んだのだ。
当時、NHKの地上波でも六大学野球は、法政、明治、早稲田、慶応のカードは普通に放送されており、月曜日の3回戦にもつれた場合も緊急編成で全国中継されたほどだった。
そればかりではない。ベースボール・マガジン社からは春・夏ともに開幕前に増刊号が発売され、報知新聞社からは『神宮の星』という、ちょっと軟派な感じのグラビア雑誌も出ていた。
とにかく“六大学黄金時代”である。
私は兄が法政に進んでいたが、ラグビーが好きなこともあって、早稲田の選手に憧れた。
いちばん好きな投手は阿部政文(丸山氏とは同学年)で、野手には松本匡史(後に巨人)、吉沢俊幸(後に阪急)、江川と巨人でバッテリーを組むことになる山倉和博、そして1976年には岡田彰布が入学してきた。
1974年春以来、優勝校は「早・法・明・明・法・法・法・法」と法政の黄金時代ともいえるが、1975年の明治は魅力のあるチームだった。
主将だった丸山氏は長野県の上田高校卒。眼鏡をかけた独特の風貌で、サイドスローのフォームが美しかった(本文中に一点だけ、丸山氏の投球フォームがあるが、このバランスが素晴らしい)。
「明大野球部の存在意義は早慶を倒すことにある」
丸山氏の本は、当時の明治野球の青春譜である。
実際に「1000球」の投げ込みを命じられたエピソードも出てくる。
「300球、400球、500球と進み、ふと後ろの御大を見ると頭が垂れている。居眠りだ。『投げるほど頭を垂れる御大(おやじ)かな』」
実際、1000球は投げていないらしいのだが、丸山氏は1000球セレモニーの意味をこう考える。