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「女子ラグビーに魅せられて…」歴史を築いた開拓者・中村知春&桑井亜乃、未来を担う現役日本代表・堤ほの花、3人が語る過去・現在・未来
posted2025/06/05 10:00

右から中村知春、桑井亜乃、堤ほの花
text by

矢内由美子Yumiko Yanai
photograph by
JRFU/AFLO(2)
競技人口の増加や世界大会での成績向上など、近年、大いに発展を遂げている日本の女子ラグビー。2016年リオ大会で7人制ラグビーが初めて採用されて以来、女子日本代表「サクラセブンズ」は4年に一度のスポーツの祭典に3大会連続で出場し、今季のワールドシリーズでは初のワールドチャンピオンシップ進出を果たした。
これらの実績は一朝一夕に築かれた訳ではない。躍進の背景には、楕円球への思いだけを拠り所に、手探りで世界を目指した草創期のレジェンドたちがいる。
「いつも試合は5ファウルで退場していたので……。だから、次はコンタクトスポーツをしてみたいと思ったんです」
小学校から大学4年生までバスケットボールをやっていた中村知春が、ラグビーに転向した理由を苦笑交じりに説明する。7人制ラグビーがリオ大会から正式競技になると決まったのは中村が法政大学3年生だった2009年10月。その約1年後、部活を引退した中村が次は何をやろうかと思案している時に目に付いたのがラグビーだった。
「バスケットボールは相手をつかんだ時点でファウルになるのですが、ラグビーは『何でもやっていいんだ』という感覚でやれました。タックルの爽快感やボールを手に持って守備を抜く感覚がすごく楽しかった」
しばらくは楕円球の扱いに四苦八苦したが、それにも徐々に慣れていった。だが、のめり込んだ理由は楽しさだけではない。
「ラグビーというスポーツの精神性です。ラグビーには憲章があり、品位・情熱・結束・規律・尊重が謳われています。ノーサイドという言葉を含め、全世界共通の憲章が存在するラグビーという競技が非常に新鮮で、魅力を感じました」
中村は転向直後の2011年から日本代表候補合宿に呼ばれるようになった。日本ラグビーフットボール協会はリオ大会の出場権獲得を目指し、他競技からも選手を募集していたのだ。当時の中村は広告代理店の社会人1年目。平日は深夜までクライアントを接待し、金曜日の夜に移動、土日の代表合宿に参加するという過酷な毎日だった。
歴史を築き上げた開拓者と未来を担う現役日本代表
中村から遅れること約1年。中京大学卒業後の2012年に陸上の円盤投げから転向してラグビー界にやってきたのが桑井亜乃だ。出身地の北海道幕別町では夏に陸上、冬にアイスホッケーをやり、陸上の推薦枠で大学に進学。大学の体育の授業でラグビーと出合うと、スピードやパワー、さらには171cmの長身を見込んだ体育教官からラグビーへの転向を勧められた。そして、「4年に一度の大舞台に立ちたい」という子どもの頃からの夢にも押され、転向を決意した。
強い覚悟を持って未知の世界に足を踏み入れた桑井。しかし、リオ大会までの道のりは険しく、次々と困難に直面した。アイスホッケーの経験があるため、接触プレーへの抵抗感がないのは利点だったが、陸上の経験が思いがけない足かせとなった。陸上では「急に止まるのは危険」と教わり、「腰の位置をなるべく高くして走る」のが基本だが、逆にラグビーでは急ストップすることや、瞬時に体勢を低くできるように準備しながら走るのが基本だ。低い体勢になるのが苦手だった桑井は、やがて代表に入ったり外れたりを繰り返すようになった。
「弱点を克服しないと代表に入れない。武器を身につけないとふるい落とされる」
崖っぷちに立った桑井は、友人の大学男子ラグビー部員に頼み込み、低い体勢で強く当たれるようになるための個人練習を繰り返した。そうして迎えた2014年ワールドシリーズのコアチーム昇格大会。桑井は、試合で初めてスティール※に成功した。
「あれが私の分岐点です。絶対にリオに行きたいという強い思いがある中で挫折も味わいながら成長し、認められていく過程を体感し、ラグビーの奥深さも理解しました」
桑井はスティールを武器に代表に定着。必死にもがきながら自分の殻を破ったことでリオ大会の出場が実現した。
他競技から転向した中村や桑井のラグビー歴が22歳以降であるのに対し、幼少期からラグビーに親しんできたのは堤ほの花だ。佐賀県嬉野市に父が開設したラグビースクールで競技を始め、20年以上が経つ。
「最初の頃は少し怖くて、なんで女の子にやらせるの? という気持ちがありました。でも、中学生頃から福岡県のチームでやるようになると仲間に会えるのが楽しくて、そのままラグビーも好きになりました」
外遊びよりも家にいる方が好きだった堤だが、子どもの頃から足は速く、陸上部でも県大会で上位の成績を収めるほどだった。中学卒業後は佐賀工業高校に進学し、男子部員と一緒に練習する毎日。この時期は、やり始めたらとことん打ち込む性格が堤を成長させた。苦手だったボールハンドリングを克服するため、授業中はずっと指の股を開いて柔軟性と強度を高めた。「ノックオン女王と言われるくらいハンドリングが下手でしたが、『指を開いてキャッチしろ』と言われて鍛えたお陰で今ではハンドリングが得意になりました」
世界を目指すと決めたのは高校1年生で女子セブンズのユースアカデミーに呼ばれて行った時のこと。そこでは全国から集まった選手たちが高い意識で練習に取り組んでいた。
「自分もラグビーで頑張ってみようとスイッチが入ったのはその時でした」
ただ、それだけではない。堤はすっかりラグビーに魅了されていた。
「内気な子がラグビーボールを持つとガラッと変わったり、普段は騒いでいることの多い子がラグビーには黙々と取り組んでいたり。体形も様々な選手がいるのがラグビーの特徴ですし、人のいろんな魅力が詰まっているのがラグビーです。私自身、昔は静かな子どもでしたが、ラグビーでコミュニケーションを取るようになってからは普段の性格も明るくなったと思います」
ラグビーに対する三者三様の熱い思い。その中には女子の7人制を10年以上支えてきた「太陽生命ウィメンズセブンズシリーズ」への思いもある。中村は2014年の第1回から出場し、現在は自身が立ち上げたナナイロプリズム福岡のGM兼選手として参戦中。「女子セブンズの世界大会と同じフォーマットでやっているのは日本だけ。日本の選手たちがここまで成長したのは間違いなく太陽生命ウィメンズセブンズシリーズのお陰です」と感謝する。思い出の年は、日本代表候補で編成されたチャレンジチームの一員として出場し、2大会で優勝した2021年。「日本代表だから勝って当たり前と見られる中、選手たちは代表選考の当落線上にいることを自覚していました。そのような状況でチームを優先するプレーに徹したことに誇りを感じました」と胸を張る。
結果的に2021年東京大会の代表入りは叶わなかったが、悔しさをバネに再び立ち上がった中村は2024年パリ大会で2大会ぶりに夢舞台のピッチに立ったのだった。
桑井は「女子ラグビーのスタート時は今ほどレベルが高くなかったかもしれませんが、太陽生命ウィメンズセブンズシリーズのお陰でどのチームも強くなっています」と言葉に力を込める。桑井は2021年に現役を引退した後、レフェリーとして2024年パリ大会を目指し、見事に目標を叶えた。「パリでは世界のレベルの向上を感じつつも、日本がそれ以上の速さで成長していることを実感しました。太陽生命ウィメンズセブンズシリーズに出たいという世界トップの選手が多く来ているので、国内のレベルが上がり、外国人選手とやることで若手が成長しています」としみじみ言う。
3人の中で最も若い堤も、太陽生命ウィメンズセブンズシリーズで力を伸ばした選手だ。堤の名がラグビー界に広まったのは2015年の第2回大会。ユース日本代表で編成されたチャレンジチームの一員として出場し、トライを量産した。
堤が「一番印象に残っている」と言うのは2023年5月に史上最速で大会通算100トライを達成したこと。「選手としては実力を確かめられる太陽生命ウィメンズセブンズシリーズという場があることがすごくありがたい」と感謝する。
中村は太陽生命ウィメンズセブンズシリーズ優勝を果たすことを目標としているほか、今後はアジアでの活動も見据えてこのように言う。
「日本でも15年前は『ラグビーなんて男のスポーツ』『趣味でやっているくせに』と言われたものですが、アジアではまだその風潮が根深い。アジアの女子選手が自分の好きなスポーツで夢を見ることのできる環境をつくる手助けをしたいです」
桑井は「次の目標は15人制ラグビーのディビジョン1のレフェリー。いずれは世界大会で笛を吹きたいですし、レフェリー活動を通して女子ラグビーへ恩返しをしたい」と目を輝かす。
そして今年28歳の堤は、6万6000人の大観衆の前で史上最高の9位という成績を収めたパリ大会の経験を踏まえ、「日本でももっと多くの人に女子ラグビーを知って欲しい。2028年ロス大会ではメダル獲得を目指して頑張りたい」と意気込む。
レジェンドたちの熱い思いは連綿と次世代へ受け継がれている。その土台に太陽生命ウィメンズセブンズシリーズがある。
※タックルで倒れた選手からボールを奪うプレー、またはラインアウトで相手のボールを奪うプレー 旧称:ジャッカル
