Jをめぐる冒険BACK NUMBER
「テツ!絶対に勝てよ!」衝撃だった川淵三郎との出会い、オフトvsラモスの衝突…柱谷哲二が語るドーハの悲劇とW杯を諦めた瞬間
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byKoji Asakura
posted2022/01/31 11:03
加茂、オフト、ファルカンと歴代の監督から信頼を集め、日本代表で長らくキャプテンを務めた柱谷哲二
翌94年に発足したファルカン体制下でもキャプテンを務めた柱谷は、94年末に代表監督に就任した加茂周からもキャプテンに指名される。
加茂体制1年目、柱谷にとって思い出深いのが、6月に英国で、イングランド、ブラジル、スウェーデンと対戦したアンブロカップである。
その第1戦で、柱谷は夢の舞台に立った。
「サッカーの聖地・ウェンブリーでイングランドと対戦できるなんて、幸せだった。試合前、(ガリー・)リネカーが3-0で勝つと予想していて、なにくそ、見てろよって」
後半3分に先制されたが、井原正巳のゴールで同点に追いついて1-1で残り5分を迎えたとき、痛恨の出来事が起こる。
ゴール前の混戦のなか、強烈なボレーシュートが日本のゴールを襲う。GK前川和也は倒れたまま起き上がれず、ゴールライン上にいた柱谷も前川ともつれて体を投げ出せない。
その瞬間、“神の手”がボールを弾き出した。
「ゴールされたくないという気持ちで、とっさに手が出てしまった。これで次のブラジル戦は出場停止。ロベルト・カルロスと対戦したかったんだけど(苦笑)」
この年はその後、8月にコスタリカとブラジル、9月にパラグアイ、10月にサウジアラビアと対戦した。柱谷はすべての試合に先発したが、“ドーハの悲劇”からちょうど2年後の95年10月28日に行われたサウジアラビアとの第2戦が、代表のラストゲームとなった。
96年2月に予定されていたオーストラリア遠征を体調不良で辞退すると、その後、声が掛かることはなかったのだ。
「オーバートレーニング症候群になってしまって。別メニューで参加させてもらえないか相談したんだけど、コーチの岡田(武史)さんがダメだと。それで辞退することになって」
柱谷が不在の間に日本代表は世代交代が進み、柱谷の戻る場所がなくなってしまう。
「それでもいつか自分の力を必要としてくれるときが来ると思っていた。特に最終予選では。でも97年の夏、ベルマーレ平塚戦で味方GKの本並(健治)と交錯して肩甲骨が割れてしまった。ヒデ(中田英寿)が鋭いボールを入れてきたもんだから……」
加茂監督の更迭、フランスW杯も選外に
97年9月に開幕したフランスW杯アジア最終予選では苦戦が続き、加茂監督が更迭される。岡田が後任に就くと、北澤や中山、高木琢也といったドーハ戦士が次々に代表復帰した。
万全のコンディションであれば、柱谷にも声がかかったかもしれない。
「だから自分はW杯と縁がないのかなって。加茂さんを助けられなかったのはすごく残念で。翌年、フランスW杯のメンバーに入れなかった時点で、日本代表は諦めた」
こうして柱谷の日本代表としてのキャリアは閉じられた。
そして、プロサッカー選手としてのキャリア終焉も迫っていた。
(つづく)
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