Jをめぐる冒険BACK NUMBER
「テツ!絶対に勝てよ!」衝撃だった川淵三郎との出会い、オフトvsラモスの衝突…柱谷哲二が語るドーハの悲劇とW杯を諦めた瞬間
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byKoji Asakura
posted2022/01/31 11:03
加茂、オフト、ファルカンと歴代の監督から信頼を集め、日本代表で長らくキャプテンを務めた柱谷哲二
オフトに不信感を持つ選手も少なくなかったが、韓国、中国、北朝鮮と対戦した92年8月のダイナスティカップで国際大会初優勝を遂げると、チームは一気にまとまり始めた。
「決勝前のミーティングでオフトは“韓国コンプレックス”をなくさせようと、相手のメンバー表をビリビリに破いて踏みつけたの。結果、PK戦までもつれたけれど優勝できた。それで、オフトを信じてやっていこうという雰囲気になって」
この年秋に広島で開催されるアジアカップに向けて、チームの士気は高まっていた。
ところが、それでもオフトに噛み付く選手がいた。
「相変わらずラモスさんが『自由にやりたい』と。だから大会終了後、『我々はオフトに付いていくと決めました。まだグチャグチャ言うんだったら、代表を辞めてください。チームに入ってきてください。お願いします』と言ったの。ラモスさんはびっくりしていたけど」
だがその後、柱谷が釘をさす以前のインタビュー記事が雑誌に載った。そこでラモスはオフト批判を繰り広げていた。
「しつこい男だなって(苦笑)。でも、オフトがラモスさんを呼び出して話し合ったみたい。次の合宿では急に仲良くなっていて、オフトが『ルイ!』なんて呼んでいる。なんじゃこりゃって(笑)」
アジアカップでも優勝を果たした日本代表は、翌93年4月から5月に掛けて行われたアメリカW杯アジア1次予選を突破し、10月のアジア最終予選進出を決めた。
ハードな日程をこなす柱谷に病魔が襲う
5月15日にはJリーグが開幕し、週2回のゲームをこなす過密日程が続く。日本列島は空前のJリーグブームに沸いたが、ハードスケジュールに柱谷の体は蝕まれていた。
「8月半ばくらいにドーンと熱が出て。車を運転するのも大変な状態で病院に行って、血液検査を受けたら、『即入院です』と」
診断結果は、ウイルス性の風邪による肝炎――。
「『絶対に安静です』とも言われて。動いちゃダメ。脂っぽいものも食べちゃダメ。クーラーの効いている部屋でずっと寝かされて。これ、最終予選に間に合わないかもなって」
ようやく退院できたのは、約1カ月後。その時点で、W杯アジア最終予選の壮行試合でもあるアジア・アフリカ選手権のコートジボワール戦が迫っていた。
「筋肉はすっかり落ちていたし、まだ微熱があって、血液検査の数値も正常じゃなかった。でも、トレーニングを始めないと最終予選に間に合わない。病室から出たときに、すれ違う人がいやに速く感じてね。動体視力が衰えていたんだと思う」
10月4日、国立競技場で行われたコートジボワール戦のピッチに、柱谷はなんとか立った。8月14日のサンフレッチェ広島戦以来、実に51日ぶりの公式戦だった。
試合前、柱谷はオフトから「ファーストハーフでチェンジだ」と告げられた。ところが、ハーフタイムを迎えても、一向に交代となる気配がない。
ゲームは0-0のまま延長戦にもつれ込み、延長後半11分のカズのゴールが決勝点となって勝利し、柱谷はなんと120分フル出場を飾るのだった。