甲子園の風BACK NUMBER
甲子園優勝3回“やまびこ打線”池田高も定員割れの現実「まるでホテル…寮を新設」公立校で県外生徒が入学、激変する現場「5年後、面白くなると思います」
text by

田中仰Aogu Tanaka
photograph byNumberWeb
posted2025/08/03 11:02
徳島県西端の山間にある池田高校
「当時の野球部は“おらが町のエースで4番”が集まるようなチームだったので僕は入りませんでした。よく覚えているのが、一つ上の代(92年入学世代)にすごい選手がたくさん集まってたんですよ。池田史上最強と言われていたくらい」
最強世代も甲子園出られず
しかし、1992年を最後に池田は夏の甲子園から離れている。楠本の言う「史上最強の代」も甲子園出場を逃したことになる。
「その代に、140キロ超のスライダーを投げるような、とてつもない投手がいたんです。でも途中で野球部をやめちゃったんですよね。今でも話題に上がりますよ。あの人は凄かったと」
ADVERTISEMENT
楠本は野球部出身者ではない。高校時代から今日まで、あくまで外部の人間として池田野球部を見ていた。だからであろう。彼の説明には他の関係者と異なる客観性があった。
「甲子園から離れて、少しずつ池田の賞味期限が切れたというか、うまい選手が集まらなくなっていって。(2000年頃に)追い打ちをかけるように寮が閉鎖になりました。阿波池田駅のJRのダイヤ見ましたか? 激減しています。となると、遠方の生徒の練習時間が足りなくなりますよね」
寮・銭湯を負担した時代も
2010年頃、事情を知った楠本は高校近くの物件を購入した。池田野球部のために寮を無償で提供したのだ。食事は商店街の食堂が協力。風呂は銭湯代を楠本の会社が負担した。楠本が笑みを浮かべる。
「銭湯はサブスクでした。その主人の方が月に6万円ほどで承諾してくれて。格安ですよ。坊主頭だったら入り放題。僕も何度か銭湯で野球部の子たちに出くわしたことがあるんですけど、坊主なのにリンスしてて。ちょっと驚きましたね」
地元の人々は惜しみなく池田野球部をサポートしてきた。楠本がオーナーを務める駅前のホテル名も「阿波池田駅前ホテルイレブン」。1974年に春の甲子園準優勝を果たした「さわやかイレブン」にちなんだ命名だ。
最後に、楠本の見解を知りたかった。「外から見ていて」。そう前置きして聞いた。池田はなぜ徳島で勝てなくなったのか。


