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楽天の盗塁成功率が爆上がり中「走塁のことは三木に聞け」三木肇監督の知られざる原点「生き残るために一芸を…」20代前半であえて選んだ“脇役”の道 

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佐藤春佳

佐藤春佳Haruka Sato

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photograph bySANKEI SHIMBUN

posted2025/05/15 11:00

楽天の盗塁成功率が爆上がり中「走塁のことは三木に聞け」三木肇監督の知られざる原点「生き残るために一芸を…」20代前半であえて選んだ“脇役”の道<Number Web> photograph by SANKEI SHIMBUN

ヤクルト入団会見で当時の野村克也監督を担ぎ上げる18歳の三木肇(前列左、前列右は息子の野村克則) 

 楽天では今も三木監督、各コーチともやはりミーティングの時間を大切にしている。

「今の選手たちはホワイトボードに書いたことをパシャパシャッて携帯で撮るんだよ(笑)。確かに今時の言葉で言えば“タイパ”がいいということだろうけど。書いて覚えることもあるから本音を言えばノートをとって欲しいけど……」

 そう笑いながら、形を変えながら綿々と受け継がれていく“野村イズム”を実感している。

19歳を守備固めに…ノムさんの“親心”

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 名将との忘れられない思い出がある。プロ2年目の1997年、巨人との開幕カードの出来事だ。初めて一軍で開幕を迎えて浮き足立っていた19歳に、いきなり声がかかった。

「確か1点差で勝っている展開の9回に、ショートの守備で起用してもらったんです。最後、ショートゴロでゲッツーをとって試合終了。緊張したけれど本当に嬉しかった。他の選択肢もあったはずなのに、僕なんかにそのチャンスを与えてくれた野村監督の勇気、若い選手を思う親心というものは忘れられないし、今でも自分の財産として生きています」

 1998年シーズン限りで野村監督が退任し、若松勉監督が就任。変化していくチームの中でなおも高いレギュラーの壁の前で、若者はもがいていた。活路を切り拓いたのは、その堅実な守備力と走塁だった。

「野村監督の『生き残るために一芸を磨け』という言葉が心に残っていました。加えて若い頃に、あるコーチに言われたんです。『三木って大阪人やろ? 間を読んだり、相手の裏をかいたりするのは得意種目やんか。なにを正統派の走塁してんのや』って。その言葉をきっかけに確かにそうだと思って、僕なりに色々と走塁の勉強をするようになったんです」

スイッチヒッターにも挑戦

 2001年には、守備固めや代走として存在感を示してリーグ制覇に貢献。04年からはスイッチヒッターにも挑戦して、活躍の機会をさらに増やすべく奮闘した。

「スイッチに挑戦したきっかけは左の手首を痛めたこと。リハビリの一環として逆側で打っていたら、若松監督から『三木、左で打ってみろ』と言われたんです。アマチュアでも全くやったことがなかったのに、いきなり両打ちをやり出した。守備もピッチャーとキャッチャー以外は全てのポジションを守りましたしね。レギュラーになるのが大きな目標でしたけど、それが出来ないなら何か必要なチームのピースになれば自分が生かされるんじゃないか、と考えるようになりました」

【次ページ】 朝6時に受けたトレードの電話

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