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プロ野球PRESSBACK NUMBER
楽天の盗塁成功率が爆上がり中「走塁のことは三木に聞け」三木肇監督の知られざる原点「生き残るために一芸を…」20代前半であえて選んだ“脇役”の道
posted2025/05/15 11:00

ヤクルト入団会見で当時の野村克也監督を担ぎ上げる18歳の三木肇(前列左、前列右は息子の野村克則)
text by

佐藤春佳Haruka Sato
photograph by
SANKEI SHIMBUN
プロの門をくぐったのは1995年秋のドラフト。この年、日本シリーズを制した野村克也監督の目に留まった内野手として、ドラフト1位でヤクルトスワローズに入団した。時は野村ヤクルトの黄金期。上宮高時代に守っていたショートの定位置には池山隆寛が座り、さらに1年先に入団していた宮本慎也も控えていた。
「経験と技術がある選手ばかりで、高卒の僕が戦えるレベルではなかった。それはもう最初に一緒にプレーした時点で凄い世界に入ったな、と感じました。ただ、当時の先輩方は本当に優しかったんですよ。2年目のキャンプは池山さんと同部屋になって凄く面倒を見てもらいましたし、古田(敦也)さん、真中(満)さん、宮本さん、稲葉(篤紀)さん、……いい先輩たちが野球のこともそれ以外のことも色々と教えてくれました」
監督として読み返す「野村ノート」
キャンプではクタクタに疲れ果てた練習後に野村監督恒例のミーティングが始まる。若き高卒内野手は、ひたすらメモをとって頭を鍛えた。そのノートは監督になった今となっても折に触れては何度も読み返すのだという。
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「ホワイトボードに野村監督が自分で字を書いて、それを僕らが書き写して勉強していく。例えば12通りのカウントの中でバッテリー間の心理とバッターの心理があって、駆け引きや戦術が変わってくる。技術的なことだけでなく、人生論や監督が使っていた難しい言葉なんかも、19、20歳の時と、48歳になる今とでは感じるものが全く違うんですよね。時がたってさらに野村監督のミーティングは自分の中に生かされていると感じます」