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桑田真澄18歳「ボク払います」ポケットから出した“驚きの金額”…「彼女に会いたくて」寮の門限で攻防、巨人レギュラー争いの内情…巨人OBが語る寮生活
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岡野誠Makoto Okano
photograph byKazuhito Yamada
posted2025/02/16 11:04
PL学園から巨人に入団した桑田真澄。写真はプロ2年目の1987年撮影
東京ドーム開場の88年はチャンスだった。開幕スタメンの鴻野淳基がタイムリー悪送球をするなど守備の乱れで二軍落ち。連鎖するように、岡崎郁も精彩を欠いた。だが、6月に自慢の肩が突然の激痛に見舞われる。ジャイアンツ球場でノックのボールを一塁へ送球すると、右耳に破裂音が響いた。
「投げた瞬間に『ブチッ』って切れたような音が聞こえました。肩の筋肉を包んでいる袋が裂けてしまったそうです。アップもストレッチもきちんとしていたし、酷使していたわけでもない。予兆は全然なかったんです」
川相昌弘、元木大介…激化した競争
藤岡が手術で渡米する前後に、ルーキーの勝呂博憲が台頭。リハビリの続く翌年、王貞治から藤田元司に監督が代わると、川相昌弘がショートのポジションを奪取した。
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「ケガで一番のセールスポイントがなくなってしまった。プロ野球界の中で自分より肩が強いと思ったのは、西武の羽生田(忠克)さんだけです。あとは、なんとも思わなかった。ジョーブ博士の手術で肩の激痛は取れましたけど、元の状態にはならない。戻っても80%でした」
それでも、藤田監督はチャンスを与えた。日本シリーズで近鉄に3連敗の後、4連勝で奇跡の日本一に輝いた翌年、中畑清の引退で内野の一軍枠が1つ空く。藤岡はサード・岡崎のバックアップ要員として、初めて一軍のグアムキャンプに抜擢され、開幕一軍を勝ち取る。
「シーズンに入ったら、ほとんどベンチだったので、いざ出る時には試合勘も全然なくなっていました。大変ですけど、どんな状況でも結果を残さないといけない。それがジャイアンツなんだなと」
公式戦初出場はチーム13試合目の阪神戦。大量リードを許した8回に代打で登場するも、仲田幸司に三振。1週間後のヤクルト戦でプロ初ヒットを放つも、5月7日に登録を抹消された。皮肉にも翌々日、岡崎が右足太もも裏を痛める。一軍帯同が続いていれば、代わりに藤岡がスタメンに抜擢されたかもしれない。
運命の歯車は噛み合わなかった。オフには同じ内野手の元木大介がドラフト1位で入団。煌めく新星に押し出されるように、ファームでも藤岡の出番は減っていく。そして、長嶋茂雄監督の復帰で沸く92年オフ、藤岡はジャイアンツ球場のスタッフルームに呼ばれる。ドアを開けると球団副代表とマネージャーが座っていた。〈つづく〉


