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「江夏の引退試合を甲子園でやらせてください」に阪神オーナーがNO…大投手・江夏豊が泣いた日「メジャー可能性75%→クビに…現役引退するまで」
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細田昌志Masashi Hosoda
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2025/02/14 11:06
1985年1月19日、多摩市営一本杉球場での「江夏豊たった一人の引退式」
しかし、26日のカブス戦で4安打4失点と打ち込まれると、30日のアスレチックス戦で2回4安打3失点、4月2日のエンゼルス戦では強打者・レジ―・ジャクソンにタイムリーを浴びるなど、4安打2失点で敗戦投手となると、ブリュワーズから自由契約を通告される。数日間、他球団からのオファーを待ったが、どこからも声はかからなかった。
多くの関係者は「江夏は1Aに残ってもメジャー挑戦を諦めないだろう」と見た。“仇敵”である西武監督の広岡達朗までこんなエールを送っている。
「ここまできたら、3Aでも2Aでも1Aでも経験してくればいい。あの年で大リーグに挑戦した江夏はえらいですよ。人間江夏が自分の生き方を見直すいい勉強なんですよ。日本の野球さえ知らない評論家が多い中で、アメリカの野球を知ることはいいことです」(『日刊スポーツ』1985年4月4日付)
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しかし、江夏は1Aに残ることを選択せず、日本に帰国してしまう。その後、古巣の南海ホークスが「年俸3000万円+出来高払い」でオファーを出すも「やれるだけのことはやったから」と拒否し、正式に現役から退いた。このとき中2だった筆者は、心底落胆したのを憶えている。アメリカに残っていればメジャーに昇格出来たのではないか。となれば、村上雅則の次に日本人メジャーリーガーとなったのは、1995年の野茂英雄ではなく、1985年の江夏豊となったはずだ。
また、南海ホークスのオファーを蹴った理由は複数あったと思われるが「たった一人の引退式」のことも脳裏をよぎったに違いない。「あれだけ盛大な引退試合を手作りでやってもらったのに、へいこらと日本の球団のユニフォームを着るわけにいかへんやろ」といったところだったのではないか。つくづく、惜しかったが、江夏らしいと言えば江夏らしい幕切れだった。
<全3回/前編、中編から続く>


